神、熊、人間、すべてが一つになるアイヌの熊祭り 煎本孝『こころの人類学』より
記事:筑摩書房
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飼育された子グマの熊祭りにおいて、子グマが広場をめぐり、矢を射られ、二本の丸太により絞殺されるという狩猟の場面が演じられ、その後、肉体から分離したカムイはクマの両耳の間に座っていると考えられ、賓客として祈りと供物を捧げられる。すなわち、ここではクマを殺すことと、賓客として迎えるという相互に矛盾する行為が、クマは動物であると同時に人格であるという初原的同一性の論理により正当化され、その過程がまるで演劇のように演じられ、人びとはこの活動に自ら参加する。そして、アイヌとカムイとは共有される時間と空間においてこの祝宴を享受するのである。
さらに、熊祭りにおいて、ある若者はクマの真似をし、儀礼の過程を再び演じる。この「アイヌ(人間)・ペウレップ(子グマ)」と呼ばれる遊戯の演者は社会的に認められたシャマンではなく、むしろ変人や元気な若者が選ばれるという。しかし、クマと人間との変換という意味で、その本質はシャマニズムと類似する。ここで重要なことは、人間がクマとなる演出で、子グマがカムイという人格に変換されたのと逆方向の変換により、カムイとアイヌとの本質的同一性が表現されることである。子グマに晴着を着せ、耳飾りをつけ、さらには神送りのため叉木に飾りつけをした頭骨を掲揚し、着物を着せて踊らせることは、目に見えぬカムイさえも本来は人間の姿をしていることの演出である。
また、クマ肉を食べ、血を飲むのは、現実の体感を通して人間がクマと同一化することでもある。血がカムイの薬であり、舌の軟骨が雄弁を可能にするとされているのは、クマとの同一化により人間がクマになり、その力を得ることができると考えられているからだ。熊祭りは単にクマを送るのではなく、カムイとアイヌとの同一化の表象の場となっているのである。
初原的同一性の演出は神と人間との関係のみならず、人間と人間との関係にも見られる。席次とその交替、交換の儀式は主人と客人、古老と若者の立場を逆転させることで、人間の本質的同一性を体感させる。
若者が古老の席につくことは、儀式の経験を通して伝統社会の規範を若者が学び、同時に古老が若者を認め、社会の将来を彼らに託していることを若者に認識させ、古老も若者も同じ人間として社会を作っていくことを相方に確認させる。また、主人と客人との関係は固定したものではなく、次の熊祭りには逆転する。彼らの間の酒杯の献酬、席次の交換、贈答の儀式はこれらの象徴的活動を通して、彼らの間の社会的平等原理に基づく互恵的関係を相方に認識させることになる。
クマ肉の分配と共食は神の肉を人びとが食べることにより、神と人間との同一化のみならず、同じ神の肉を分け合って食べることで、人間同士の結合を体現させる。同じ火によって料理されたものを分け合って食べることにより、同じ火の姥神を母に持つ乳兄弟となると考えられていることから、祭りの参加者の同一性と結合の共感を可能としているのである。
アイヌの熊祭りにおいては、綱引きや弓矢を用いた射術競技が広く見られる。また、樺太アイヌでは、頂部が二叉に分かれた高い柱に縄を投げて引っ掛け、幹をよじ登る競技が行われる。さらに、ニヴフの熊祭りでは、相撲、縄跳び、高跳び、切り株に座ったままで床に置かれた椀の水を飲む競技、後方に身体を曲げる競技、犬橇の競争など様々な競技が行われる。
競争的遊戯は、対立とその解消により、異なる世界の結界を解き、初原的同一性の場を創出する装置である。
アイヌの熊祭りにおける綱引きは、男と女、男たち、あるいは山の者と川沿いの者という対立的範疇の衝突と和解により、彼らが同じ人間であることを共感する場を作り出す。北海道東部網走においては、クマの絞殺後、クマを結んでいた縄を輪にして男女が踊りまわる。その後、男女に分かれて綱引きが始められ、中間より切断される。また、釧路では男が二人で引き合い、途中で古老が小刀で綱を切り、引き合っていた二人は後ろにひっくり返り、観衆は大笑いして終わる。綱を切るのは、縄の霊が切られることにより自由となり、子グマと一緒に神の国に送られるようにするためとされる。しかし、同時に、綱引きで綱を切るという演出は対立と同一化のメタファーともなっている。
また、そこでは、送られるクマが雄グマならば男組が勝ち、雌グマならば女組が勝つというように、神も参加し、アイヌとカムイとの境界も取り払われている。また、勝ったらクマが獲れるという猟運は、料理され細く切られたクマの腸の長さをあてる運試し、射術競技による運試しと同じく、幸運の贈与である。これらの幸運が社会的序列にはよらず、偶然的要素を含む遊戯によってもたらされることは、人間同士の同一性の確認の場を創出することになる。
熊祭りにおいて幣を捧げ祀られる神々は送られるクマのみではない。地域により幣所の構成と神々に変異はあったとしても、時間的、空間的に広がるアイヌの世界を構成する神々が祀られ、それらすべての神々は熊祭りに参加していることになる。歌と踊りは動物の神々の真似を通して、人間と神々との同一性を演出し、神々がこの場を共有していることを体現させ、男も女も輪になって歌い、踊ることで祭りの進行の原動力を生み出す。さらに、祖先供養は死者の世界と現世とを結びつけ、彼らが熊祭りの場に参加することを可能とする。ユーカラを語ることで、人びとは人間と神々の起源にまで神話的時間を遡り、自己の帰属性を再確認する。したがって、熊祭りの場には神々とアイヌ、さらには交易を通して結ばれる外部社会に至るまで、アイヌの世界のすべてが結集しているのである。
さらに、歌と踊りの間、目の不自由な青年を踊りの輪の中に入れ、その音頭で賑やかに歌ったり踊ったりし、また女たちが何度もかわるがわる踊りの輪から抜け、盲目で耳の工合も悪いため家の中の炉辺に座る老婦人に、熊祭りが今どのあたりまで進んでいるかを告げることは、人間が同一性の感覚の中で、弱い者にも同じ人間として手を差し伸べ、祭りに参加させようとしていることを示す。熊祭りの場は共生とおもいやりのこころというアイヌの世界の象徴的、かつ具体的表現の場なのである。
熊祭りは自然と超自然との結界を解き、その間をアイヌとカムイとが自由に往来するシャマニズム的世界観に支えられており、この意味でシャマンなきシャマニズムの実践である。これにより、熊祭りはアイヌの世界の表現となり、世界の対立と同一化の演出を通して初原的同一性と互恵性、共生とおもいやりのこころを体現する祭りの場となっているのである。