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近世哲学は「聖書にはこう書いてあるけれど、それは本当か?」から始まった

記事:日本実業出版社

「アテネの学堂」のプラトンとアリストテレス
「アテネの学堂」のプラトンとアリストテレス

聖書への“問い”から始まる哲学

 哲学の話をする前に、みなさんは「聖書」に対してどんなイメージがありますか? 

 「聖書ってキリスト教の本でしょ? ってことは宗教の本だから、哲学や学問とは別のものだし、むしろ対極にあるんじゃないの?」と思われた方も多いでしょう。でも、実はそうではありません。

 哲学の「永遠のテーマ」と呼ばれるものの中でも特に重要で、ずーっと考えられ続けているのは、「人間とは何か」とか「神とは何か」です。その「人間」とか「神」について、これでもかと書いてある本が聖書なんです。

 聖書はいわば「人間の取扱説明書」とも呼べる書物です。「その取扱説明書が古いままだから、新しくしてみようじゃないか」というのが近世哲学の試みであり、それなら、以前の取扱説明書を知らなければ、何がどう新しくなったのか、わからないですよね。

 もっと言えば、神や人間の問題に限らず、あらゆることについて「聖書にはこう書いてあるけれど、それは本当か?」というのが、近世哲学のスタート地点です。つまり「聖書を知らない」というのは、スタート地点がどこかわからないということで、そこから生まれてきた現代哲学もいまいちピンとこない……ことになるわけです。

 言い換えれば、現代でこそ神学は哲学と違う学問になりましたけど、少なくとも中世までは哲学と神学は一緒でした。なので、西洋哲学を学ぶなら神や聖書について知ることは大切なことで、聖書を通して哲学者たちの思索のバックボーンを知ることにもなります。

そもそも哲学とは何か?

 じゃあ、そもそも哲学ってなんでしょう? これには、いろいろな答えがあります。

 「哲学とは何か?」という問い自体が、哲学の重要な研究対象であったりもします。そして今でも「これが絶対に正しい」という答えは出ていません。この問いについて、とことん論じようとすれば、それだけできっと分厚い本が何冊も書けてしまいます。

 哲学は、英語では「philosophy(フィロソフィー)」と言います。語源をたどれば、ギリシア語の「フィリア(愛する)」と「ソフィア(知恵)」の合成語です。つまり「知恵を愛する」ことが哲学なのです。

 これはアリストテレスが唱えた考えですが、現代に至るまで多くの哲学入門書にも書いてあることです。ということは、多くの哲学研究者が「うん。それはそうだよね」と納得する共通基盤であるということです。

 でも「『知恵を愛する』ってどういうこと?」と問い始めると、やっぱり「僕はこう思う」「私はこう思う」と、そこから先の結論は変わってきてしまいます。

 「知恵を愛する」とは「知ろうとすること」です。何かを知ろうとすることが学問ですから、哲学とはもともと「学問全般」を指していました。

 ここからたとえば、物体の運動について専門的に知ろうとした人が「物理学者」になり、物質の変化を知ろうとした人が「化学者」になり、人の心を知ろうとした人が「心理学者」になり……と、どんどん諸学問が「哲学」から分離独立していったのです。

“あたりまえ”を疑い、創造する力

 諸学問が巣立ったにもかかわらず、今でも多くの大学には哲学科が設置されています。現代の哲学には何が残っているのでしょうか。それは、“あたりまえ”を“新しいあたりまえ”に組み替える力であり、“あたりまえ”を疑うという精神です。

 思いきって定義するなら、哲学とは“あたりまえ”の学問です。もう少し詳しく言えば、その“あたりまえ”は「どうして“あたりまえ”なのか」とか、「本当に“あたりまえ”なのか」と純粋に観察し、考え続ける学問ということです。

 哲学に限らず、学問の始まりは常に「どうしてだ?」「これはなんだ?」という問いです。何を見ても「そんなのあたりまえじゃん」と言ってしまったら、学問は始まりません。“あたりまえ”を疑ったり壊したりすることが、学問の原動力の源なのです。

 言うなれば、哲学は「あらゆる学問の母」であり、その母から生まれた諸学問という子どもたちにとっての「実家」としてそこにあり続け、そして、折に触れてその子どもたちが里帰りして「ひさしぶり〜」と対話して活力と英気を養う「場」です。こう考えると、「哲学? 自分には関係ない話だね」なんて思えなくなってきませんか?

哲学は諸学問の源であり、活力と英気を養う「場」
哲学は諸学問の源であり、活力と英気を養う「場」

「変化の時代」こそ、哲学が必要

 今、僕たちはたくさんの“あたりまえ”に囲まれて生きています。スーパーに行けばたくさんの食べ物があり、蛇口をひねれば飲料水が出て、スマホ一つで遠くの人と会話ができて……と、数え始めればいくらでも“あたりまえ”が出てきます。でも、それって本当に“あたりまえ”でしょうか。

 現代は、史上まれに見るほどの「変化の時代」です。古い“あたりまえ”が新しい“あたりまえ”に移り変わる時代であり、もっと言えば、「“あたりまえ”の多様化」あるいは「従来の“あたりまえ”の崩壊」が起こっている時代です。

 たとえば、令和の時代になってから、あっという間にテレワークやオンライン会議が“あたりまえ”のビジネススタイルになりましたが、ほんの2年前までは“あたりまえ”ではありませんでした。

 “あたりまえ”は地域や時代によって、つまり空間や時間によっても変わります。「俺の“あたりまえ”」が「みんなの“あたりまえ”」とは限りません。自分勝手な「狭い“あたりまえ”」だったり、「古い“あたりまえ”」かもしれません。

 身の回りのさまざまな“あたりまえ”について、「これは本当に“あたりまえ”だろうか?」と考えてみると、その多くが、実は“あたりまえではない”ことがわかります。そして「本当の“あたりまえ”って何だろう?」と考えれば、難しいことなんて一つも言わなくたって、その人はもう「哲学している」んです。

「哲学は机上の空論で役に立たない」なんてよく言われますけど、こんな風に考えると、それが決して机上の空論ではなく、むしろ社会を変える原動力となる実学だと思えます。

 科学技術は多くの新しい“あたりまえ”を生み出しますが、根底には必ず哲学がある。政治も新しい“あたりまえ”を生み出しますが、その根底には哲学がある。新しい“あたりまえ”が生まれるところには、必ず哲学があります。

 つまり、哲学とは「自分なりの“あたりまえ”を持つこと」ではなく「“あたりまえ”を変える力」のこと。今のような変化の時代にこそ、哲学は必要な学問というわけです。

 そういう意味では、イエス・キリストは史上最強の「哲学者」ですし、キリストの生涯は哲学史上、最大の出来事でもあります。この人ほど、たくさんの“あたりまえ”をひっくり返し、新しい“あたりまえ”を提示した人はいないでしょう。故に、哲学を学ぶなら誰よりもまず、この人について学び、その考えが詰まった聖書について知ることが大いに役立つのです。

イエス・キリストは史上最強の「哲学者」
イエス・キリストは史上最強の「哲学者」

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