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スピノザの自然主義プログラムとは何か?(前編):必然主義と目的論批判

記事:春秋社

Spinoza, Excommunicated by Samuel Hirszenberg, 1907
Spinoza, Excommunicated by Samuel Hirszenberg, 1907

自然主義プログラム――自由意志も目的論もない世界の中で人間を理解する

 そもそも「スピノザの自然主義プログラム」とは何か。これはスピノザの言葉ではなく僕なりの命名だが、スピノザ思想の中に見いだされる、次の2点を柱とする構想である。

 

(1)自由意志概念の否定を伴う決定論または必然主義、およびその帰結としての唯現実論(アクチュアリズム)

(2)目的論的自然観の徹底的な否定

 

 この構想の背景として想定しているのは、17世紀科学革命による、近代的な力学的自然観の成立である。近代力学は、中世までの目的論的自然観を退け、「目的」とは無関係な法則に従って運動する微粒子の総体として自然を説明する。

 このような自然観を踏まえた上でスピノザは、目的なき自然法則を乗り越えられるような超自然的存在を退けた。つまりスピノザは、例えば自由意志の主体であるような神や、あるいはそのような神の「似姿」とされる、デカルト的な人間精神などを否定する。このように目的論にも自由意志にも余地を残さない自然の内部に、人間精神の働きやそれに帰される営みをも位置づけていこうというスピノザの構想を、僕は「自然主義プログラム」と呼んだ。

自由意志とも目的とも無縁な「神」=自然

 呼び名はともかく、この構想はスピノザの主著『エチカ』の第1部「神について」の「付録」で明確に示されている。

 この「神について」という部では、これまで神学者たちが用いてきた、当時の多くの人々からしても見慣れない専門用語や抽象概念を、無味乾燥な「幾何学的」命題を通して分析し考察するという、かなりとっつきにくい論述が続いてきた。だがスピノザはその七面倒くさい論証が一段落したところで「付録」を挟み、古典からの引用なども用いた生彩ある文章、あるいは肉声に近い口調で、いわば「自著解題」をしてくれている。そしてその中で、僕が「自然主義プログラム」と呼んだ構想を打ち出すのだ。

 「付録」の最初でスピノザは、スピノザが「神」と呼ぶ、あらゆるリアリティの根源に位置する存在(それは後に「自然」であると明かされる)が「自由意志……によってではなく」むしろその「絶対的本性ないし無限な力によって」存在し活動し、万事はそれにより必然的に決定されているという思想を、第1部「神について」の中心思想としてまとめる。しかしまたスピノザによれば、このような真理の受容を人々に拒ませている偏見があり、それこそが、第1に「すべての自然物が、自分たちのように、何らかの目的のために働いていると想定しており、そればかりか、神そのものすら、万事を何らかの目的に向けている、ということを確実なことだと決めてかかっている」という偏見(=目的論的自然観)であり、第2に「自らが自由であるという意見」と言われる偏見(=自由意志)に他ならない。それゆえ、人々が『エチカ』の主張を受け入れるためには、これらの偏見の除去が大きな課題となるのだ。

 この課題あるいはプログラムは、『エチカ』の解釈者にとっても大きな導きとなる。それは決して『エチカ』という書物の最終目的ではないが(その最終目的を一言で言えば、人間の「救済」と「至福」への道ということになる)、とはいえそれに反しないことが、『エチカ』の教説を正しく読み解いたと言えるための必須の条件となるからだ(近年、スピノザ哲学の核心を「十分な理由の原理(充足理由律)」に求める解釈が盛んだが、僕は「自然主義」こそがスピノザを理解する際に常に立ち戻るべき参照点だと考えている)。

偏見への逃げ道をふさぐ二本の柱

 スピノザが「付録」で語る「偏見」は、世界や人間に関する「日常的イメージ」と見ることもできる。他方、スピノザがそれに対置する『エチカ』の教説は「科学的イメージ」に対応する。こう考えるとき、スピノザの自然主義プログラムとは、世界や人間のあり方に関する「日常的イメージ」と「科学的イメージ」の衝突を見すえた上で、その衝突を、あくまで「科学的イメージ」を揺るがせにしない立場から解決しようという企図だと解される。僕がスピノザ思想の現代性を見いだすのはこの部分である。

 とりわけ注目したいのは、自然主義的な人間像・世界像と「偏見」が衝突するポイントを「目的論」と「自由意志」に集約させたスピノザの着眼だ。近代科学と日常的人間像の衝突、というのは多くの局面で見いだされるのだが、色々と考えていくとこの2点が多様な問題を束ねていることが見えてくる。スピノザの自然主義プログラムのこの二本柱は、人が自然主義的な人間像・世界像を構築していく上での、適切な課題設定となっていると思えるのだ。

 例えばスピノザの自然主義プログラムの一方の柱である「決定論あるいは必然主義による自由意志批判」を単独で支持する場合、それは思想史上しばしば、「運命論」や「神の予定」のような目的論的な思想と結びついてきた。古代のストア派や近代のライプニッツがその例だ。しかし自然主義プログラムの第2の柱である「目的論的自然観の徹底的な否定」に照らせば、このような目的論的考察は断固退けられねばならないものとなる。

 一方、こうした「運命」や「神の予定」を拒む態度は、しばしば自然の法則性そのものを免れる自由を許す思想に結びついてきた。例えばエピクロス派は、原子の不規則な「逸れ」という理論を自由意志の肯定に結びつけた。だがこの場合、自然主義プログラムの第1の柱が、このような自然必然性からの逃避の道も塞ぎ、僕らに自然主義的ビジョンの直視を求めることになる。

 このようにお互いに結び合うことで、自然主義プログラムの二本の柱は「偏見」への逃げ道を封ずるのである。

 後編では、個別のトピックとの関連でこのプログラムがどう実現されるかを見ていこう。

後編:決定論的行為者因果説・現実的本質・目的的偶然・現動的な力はこちら

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