結婚=死ぬまでお互いに対決するという仕事。ユング派の代表的分析家が説く結婚論、待望の復刊!
記事:創元社
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「良い時も悪い時も、富める時も貧しい時も、病める時も健康な時も、死が二人を分かつまで」
たいていの結婚式において、超越的なものへの言及がなされることは、―しかも大きな抵抗にさからってまで、―おそらく、結婚は幸福よりも救済とはるかに関係が深いということの印ではなかろうか。そして、結婚がなぜ一種の困難な「不自然な制度」であるかという理由にもなるのではなかろうか。
すなわち、二人の配偶者間の生涯にわたる対話的出会い、男と女の死ぬまでの絆は、魂の発見の特別の道である個性化の特別の形と解することができる。この救済論的道筋の本質的な特徴の一つは、それには逃げ道のないことである。(中略)結婚した人は自分の相手を避けることはできない。このなかば高揚させ、なかば責めさいなむ逃げ場のなさのうちに、この道の特殊な性格が存在する。
キリスト教の救済の概念の中では、愛は重要な役割を演じている。おそらく今まで結婚に関連して、愛のことをほのめかしただけだったのは、なぜかと読者は不思議に思っておられるだろうが、愛という語は、たぶん出どころは同じなのだが、それにもかかわらず、相互に区別しなければならないきわめて多様な現象を含んでいるものなのである。結婚は救済論的な愛の道の一つであるが、その愛は奔放な若者キューピッドによって生み出されたものとまったく同一ではない。キューピッドの愛は当てにならない、むら気で、自由なものである。これに反して救済論的愛の道を特色づける愛の特徴は、その「自然に反する」恒常性なのである。「良い時も悪い時も、富める時も貧しい時も、病める時も健康な時も、死が二人を分かつまで」である。一方は精神的にも肉体的にも強健なのに、他方は肉体を病み、精神的にも衰えている老夫婦をよく見かけるが、それでもなお彼らはお互いに愛しているし、しかもそれは同情や保護からではないのである。そのような事例は、救済論的結婚が要求するこの種の愛の反自然性と偉大さを例示するものである。結婚を成り立たしめている愛は「個人的な関係」を超えており、単に関係以上のものである。
だから各人は彼自身の救済論的道筋を探し求めなければならない。画家はそれを絵画に見出し、技師は建築に、等々である。
誰もが結婚しなければならないということは、たいへんな脅威である
では、結婚は万人にとって救済への通路であろうか。結婚によって心理学的発達が促進されないような人たちはいないのだろうか。われわれは、たとえば、誰もが音楽に自己の救済を見出すことなど要求しないが、もしそうであれば、多くの人が、結婚に自己の救済への道を見出さなければならないと考えることは、同様に疑わしいことではないのか。ここで人は次のような反論をすることができる。たしかに無数の救済論的道筋はあるが、しかしこの事実は結婚にはあてはまらない。大部分の人が絵描きになるべきだとは誰も思わないが、正常な人はある年齢に達すれば結婚するよう期待されている、と。つまり、結婚しないことは異常だと考えられている。独身の年とった人は幼児的で発達に問題があると考えられている。高年齢の未婚の男性は、同性愛の傾向の有無を疑われ、結婚していない女性は、魅力に欠けているためにそうなっているのだと思われる。「かわいそうに、男一人見つけられないなんて!」。誰もが結婚しなければならないということは、たいへんな脅威である。たぶんこの態度の中に、現代の結婚に関する最大の問題の一つがあると思われる。
そこで結婚の救済論的性格はますます重要になってきている。結婚はますます救済の通路となる一方、ますます幸福の制度ではなくなり、ますます天職となってきている。つまり、誰もが自分はバイオリンを演奏することに、自らの救済を見出さねばならないと信じるわけではないのに、それならなぜこんなに多くの人が、自分は結婚に召されていると信じるのだろうか。そのように一つの救済論的道筋がむしろ優勢であることは、破壊的ですらある。そして、今日結婚に本来なら無縁な無数の人々が結婚している。
ダンテは地獄を通らずしては天国に達しなかった
現代の結婚は、とりわけ救済論的通路であって、幸福への制度ではないけれども、人々はたえず、精神医学者や心理学者や結婚カウンセラーなどによって、幸福な結婚だけがよい結婚である、あるいは結婚は幸福であるべきであると教えられている。しかしながら、救済への道というものはすべて実際、地獄を通るものなのである。そして、今日結婚した夫婦に示される意味での幸せというものは幸福に属するもので、救済に属するものではない。ところが本来、結婚はまず第一に救済論的制度であって、このことが、結婚をきわめて浮沈に満ちたものにしている理由なのである。それは犠牲と喜びと苦難からなっている。(中略)
結婚というものは、彼が他では決して求めないそのことに対して自分を開いてこそ、はじめてうまくいくのである。ひどい苦労をし、自らを失ってはじめて、人は自分自身や神や世界を知ることができるのである。あらゆる救済論的な道と同様に、結婚も困難で苦痛に満ちている。
つまり、意味深い作品を創る作家はただ幸福になることを望んでいるのではなく、創造的であることを望んでいるわけである。それと同じように、結婚した人々も、心理学者たちがごり押しに信じさせたがるような幸福で調和のとれた結婚はめったに享受できないものであり、それどころか「幸福な結婚」というイメージは大きな破壊さえも引き起こすのである。
同時にまた、結婚という救済論的道筋を歩める資質をもった人に対して、結婚は、すべての同様な道と同じように、当然苦しみと労働と苦難だけでなく、きわめて深い実存的満足をも与えるものなのである。ダンテは地獄を通らずしては天国に達しなかったのであり、また「幸福な結婚」などめったに存在するものではないのである。