なぜ、私たちの社会は、生き延びるのが難しいのか? 根本から教育を考える
記事:明石書店
記事:明石書店
「人生に正解も間違いもないのに、大人は失敗を恐れ過ぎてる。」
「大人は自由に考えることが面倒くさくなってる。」
高校生たちが、言葉を選びながらゆっくりと話してくれる。現代の大人へのメッセージについて話を聞いていたときの回答だ。
大人になると、人は気がつけば生活に追われている。あれをやらなくては、これをしておかなくちゃ、求められたらそつのない意見を言わなくちゃ、あの場では目立たないようにひたすら黙っておかなくては……など、自由にものを考え、のびやかに生きているとはとても言えない。みんないつも疲れていて、大人たちはとにかく忙しそう。あまり笑わない。目が死んでいる、と高校生たちは言う。
自由にものを考えることが面倒くさいと思っているのならばまだいい。多くの大人はどんなふうに自由にものを考えたらいいか分からなくなっている。
生きていく上でいったい何を大事にして、どんなふうに暮らしてゆけばよいのか。時間に追われ、情報はネットに溢れかえっていて、だからこそ、自分の気持ちが落ち着くような暮らし方について思いめぐらすことも、どこから考え始めたらよいのかさえ分からなくなっている。そうなると「自由」に考えるどころの話ではない。
自由にものを考えてみるということはなかなかに難しいことだ。また、これまでと少し違う角度からものを見るという自由な視点には想像力が必要だ。常識からいったん距離を置く。その方法を手に入れるにはどうしたらいいのだろう。たとえば人生の先輩筋からおそわったり、目からウロコのようなことを示す本にでも出会わないと、常識から自由になって自ら考える方法を身につけるのは相当に難しい。
大人だって大変なんだ。その通り。大人たちの日々から、子どもは人生への失望をいやおうなく贈られているように見える。残念ながら、大人たちのこの罪は小さくない。
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大人は、人生には正解があるかのように子どもに向かい、示しがちだ。子どもが幼いときから、まずは子どもの潜在能力を見つけ、高めることが親の務めとか、子どもの学力を人並みにとテストの点に煩わされ、子どもに「寄り添って」いる。
たとえば、これからのグローバルな社会ではとりわけ上手な話し方が大事という価値観に、私たち大人は塗りこめられている。そんな一面的なことを進めているから、後述するOECDプロジェクトなどを通して「コミュニケーション能力」競争の渦に突入し、話すのが苦手な子どもはどんどん排除され、能力格差が激烈になり、それが本人たちの経済格差にまで結びつくようなしくみを支えてしまうことになっている。ひいては市民社会全体が窮屈で不自由なものになっている。(中略)
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日本では、小学校、中学校、高校と年齢が上になるほど、空気を読み大勢に順応してゆくようになる。経年変化だと、高校生は保守化の傾向も示す。それが大人になるということになっている。同調圧力で「傍観者」となってしまい、手も足も出なくなっている子どもが自責他害を加速させてしまっている状況も見てとれる。
人間関係のあれやこれやを体験する余裕が与えられず、子どもも保護者も教職員も「正しさ」にとらわれるがゆえに、同調圧力から自由になれない。この緊張が続くなら、残念ながら日本におけるいじめや異質を排除する人権侵害は止められないだろう。
児童虐待に関しても同様のことが言える。一九九〇年代後半、虐待対応件数よりも通報件数の方が急激に増えた。児童相談所は「虐待自体は急増していないが、通報・通告件数が急増し、通報を受ける側がパンク寸前」と悲鳴を上げた。これは日本教育政策学会でも報告された。川崎市中央児童相談所における年次推移が示され、虐待の増加よりもむしろ通告件数が急増している原因には、子どもの権利思想の広がりがあるという。そして、第一に虐待への注目、第二に子どもを手厚く育てる傾向に伴う不安が指摘された。
隣の家で夜中に赤ちゃんが泣いていたら、「どうしたの? 大丈夫?」と声をかけ合ってきた日本の共同体は、今や「虐待かもしれない」と電話をする監視カメラの役割にとって代わっている。いじめで「傍観者」が増えるのは何を示しているのだろうか。隣に声をかけず通報するのは、いったい何を意味しているのだろうか。
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さまざまな子どもを取り巻く局面を一つ一つ取り上げて、子どもや子どもを取り巻く事柄を考えてみると、私たちがどこに力を入れているのか、どこに力を入れさせられているのかがわかってくる。(中略)
二〇二〇年の新型コロナウイルス出現よりもずっと前からすでに、私たちの社会では生き延びることが難しくなっていた。これからの社会を見渡すためには、顕在化した状況の「つくられ方」を理解し分析してみることがとても重要だ。果たして何がまずかったのか。それがわかると、選び直すべき別の世界がはっきりとする。(後略)