徹底した規律と管理のもとで再生産される格差を問う『学力工場の社会学』
記事:明石書店
記事:明石書店
本書は、クリスティ・クルツ博士の著作“ Factories for Learning: Making Class, Race and Inequality in the Neoliberal Academy” の全訳である。社会学、教育学、政策研究、カルチュラル・スタディーズにまたがる理論的な視野を持ちつつ、長期的かつ緻密な良質のエスノグラフィであること、また、現在進行中の教育改革を直接扱う批判性において際立っている。原題を直訳すれば、『学習のための工場~新自由主義のアカデミーにおける階級・人種・不平等の生成』となる。
本書を読む上でまず重要なのは、英国の「アカデミー」という学校類型に関する理解である。要約的に述べれば、「中央政府が資金を拠出し、しかも民間団体による独立運営が認められた公立学校」ということになる。地方当局の統制から独立し、独自の入学指針、授業日数が認められ、教職員の労働条件も国と教師組合の交渉に縛られない。教育課程についてもナショナル・カリキュラムに縛られない。
こうした自由がイノベーションを起こし、公的部門によっては不可能であった教育問題の解決が可能になるというのが触れ込みであった。ブレア政権下で中等教育を対象に導入されたこの政策は、政権交代以後も推進され、2010年のアカデミー法により全学校段階に指定対象が拡大された。この制度改正の直前の2009年度において203校(6.1%)の中等学校のみであったアカデミーは、2019年1月の段階では初等学校5180校(30.9%)、中等学校2315校(67.1%)にまで拡大している。
インサイダーの視点から、独立の研究者によって、政策の成功例として取り上げられているアカデミーの内実を明らかにしているのが本書である。その学校の「成功」について、それが額面通り受け取られるべきものではないとして批判する本書は、同校をエビデンスの一つとして政策を正統化してきた政府に対する痛烈な異議申し立てにもなっている。
しかし、本書の射程は、アカデミーというある一つの政策の効果論に限られるものではない。というのも、筆者が述べるように、それは「突然変異的なものというよりは、教育改革の長い軌跡を遡って位置付けられるもの」であり、その原点は、サッチャー政権による「戦後教育の基盤部分の掘り崩し」にあるからである。新自由主義改革とも言われる30余年の改革の到達点が本書で取り上げるドリームフィールズ校(仮名)に結晶化していることを思えば、この研究から引き出すべき含意は、新自由主義改革の蓄積的影響がいかなる帰結をもたらしうるのか、ということになろう。
この間の教育編成の様式について、スティーヴン・ボールは、市場の形成(market form)、経営主義(managerialism)、成果主義(performativity)というグローバルな教育改革のテクノロジーがイングランドを起点に広がっているとする。市場の形成は、競争のダイナミクスを導入することであり、学校選択制に代表される。特に、入学者数と予算配分の連動がなされることで力を発揮するとされる。経営主義は、リーダーシップのもとで機動的・効率的に所与の目的を達成するような学校組織や教育行政の編成を意味する。成果主義は、学力テスト結果等の成果によって学校の、あるいは教師の生殺与奪が握られる「恐怖のシステム」を意味する。これらは、相互に連動しながら、学校教育における「社会関係、尊厳や価値の様式、目的、優れた実践の概念」を作り変え、「教師・生徒/学習者・保護者等であることが何を意味するのか」に関わる「新たな言語、新たなインセンティヴや原理、新たな役割・立場・アイデンティティ」をもたらしてきた。
ドリームフィールズ校の世界観を伝えるために著者が持ち出すのはパノプティコンである。制服・整列・時間や空間の管理を通じてなされる厳格な身体への介入、学力の徹底的な測定と監査による一望監視的統制、生徒や教師に差し向けられる有無を言わさない上意下達の管理などが、その特徴といえよう。他方、工場の比喩も用いられる。生徒という素材をベルトコンベアに乗せて適切に加工し、規格に合わない者を排除しながら、学習成果を効率的に産出していく工場のメタファーは、極めて批判的なものである。
著者は、その「工場」の副産物について各所で注意深く言及している。それは例えば、生徒の自主性や批判的精神の排除(服装や表現の管理、デモつぶし)、民主的な意見調整回路の欠如(PTA・生徒会・学校協議会の形骸化、職員室の排除と教職員の分断)、教師の雇用の安定性の破壊(過密労働、組合の敵視、高い離職率)といったものである。まだ広い世界を知らない子どもたちにとっては、学校のこうした状況が「世界」を代表してしまう。生徒たちは、自分も将来このような環境に生きるしかないという前提を暗黙的に内面化している。それは、社会的要因を顧慮しない個人化された競争と自己責任を「他に選択肢はない(there is no alternatives)」とばかりに引き受ける、新自由主義の世界に適合的な主体形成となっている。新自由主義的な思考を多かれ少なかれ内面化した保護者もまた、自らの疑問や不安を押さえ込み、こうした実践を歓迎さえしている。ドリームフィールズ校の「学力工場」は、新自由主義的な社会編成の影響の上にあると同時に、人々を新自由主義に親和的な性向に招き、問い直す契機のない自己運動に巻き込んでいくものである。
本書は、学校の内部に分け入り、社会的な格差がいかにして生み出されているかを描いた英国の学校エスノグラフィの伝統の上にある。
人種・階級をめぐる複雑化した状況が先鋭的に表れるのが、ドリームフィールズ校のあるインナーシティである。英国では、裕福な人は緑豊かで庭のある郊外に家を持つ傾向にある。他方、緊縮財政で新たな投資が拒まれ続けてきたインナーシティは荒廃が進み、特に公営住宅の一部には社会的に不利な状況にある人が集中しがちであった。公立学校の入学は学校からの距離で決まることが多いため、学校ランクの高い人気校の近くに教育熱心な層が居住する一方、インナーシティのように社会的な困難が集中する地域の近くの学校は、ますます学力や生徒指導の問題を抱えることになる。
本研究を参照点に、日本の教育や学校の実態を再検討するとともに、いかなる教育実践や政策が今後模索されていくべきかに関する公論を生み出すことが必要であろう。それは、新型コロナウイルス感染症で顕わになったこの社会のいびつさを修復する過程において、ますます重要性を増している。