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「知性」「理性」「悟性」はどう違う? 哲学は語源がわかれば面白い

記事:日本実業出版社

なぜこんなにも難しい言葉を使わなければならないのか(写真:sodawhiskey/Adobe Stock)
なぜこんなにも難しい言葉を使わなければならないのか(写真:sodawhiskey/Adobe Stock)

入門書を読んでもよくわからない

 哲学というと「役に立たない学問」の代名詞のように言われながら、哲学の入門書や概説書は、たいていの書店の少なからぬ一角を占めている。なかには、そこそこ売れているものもあるようだ。ありがたいことに、哲学に対する世間の関心や期待、あるいは「変なもの見たさ」の好奇心は、けっこう強いということなのだろう。

 しかし、「わかりやすい」とか「誰でもわかる」とか銘打たれた哲学入門書を手にしてみて、「やっぱりよくわからない」と、がっかりした経験をお持ちの人も多いのではないだろうか。かく言う私もその一人である。

 いちおう私は大学で哲学教師をやっているが、自分一人で西洋哲学2500年の歴史を網羅しているわけがない。これまでいささか研究してきた18世紀のフランス啓蒙思想のことならそれなりにわかるが、古代ギリシア哲学や中世哲学にそれほど詳しいわけではない。ドイツ語が不得意なので、ドイツ哲学も不得意である。初級文法を学んだあとに最初に読んだ本が、悪文で名高いカントだったのが失敗だった。

 しかし、大学1年生向けの「哲学入門」のような授業では、やはりプラトンやアリストテレスやカントの話をしないわけにもいかない。学生諸君には申し訳ないが、入門授業をするのに研究者レベルの知識はいらないだろう。そこで「てっとり早くわかりやすい入門書を」ということになるのだが、いくら読んでも何だかやっぱりよくわからないのである。

 また、哲学の授業をやっていると、興味を持ってくれた学生諸君によく、「もうちょっと知りたいので、わかりやすい哲学入門書はないですか」と聞かれるのだが、そういうわけで、本当の初心者にお勧めできる入門書になかなかめぐり会えなかった。そこで、それなら自分で書いてしまおうと思って書いたのが、本書『語源から哲学がわかる事典』である。

哲学の何につまずくのか

 書くにあたって、まず、多くの哲学入門書の何がわからないかを考えた。明らかに、最初につまずくのは、哲学用語が難解だということである。たとえば、哲学本の頻出単語である「知性」「理性」「悟性」はそれぞれいったいどういうもので、どう違うのか。これがきちんと説明できる方には、一学期間の授業をお任せしたいぐらいだ。

 多くの方にとって、「知性」や「理性」は何となくわかるだろうが、あくまで「何となく」というレベルではなかろうか。「あの人は知性的だ」とか「理性的になりなさい」などといった表現は、たしかに日常会話でも使われることがある。

 これらはおおむね、「あの人は賢い」とか「感情的にならず冷静に」といった意味で使われるようだ。しかし、そうしたあいまいな理解のままで哲学書を読み進むことはできない。ましてや「悟性」となったら、日常会話でお目にかかることはまずない。

 そこで手元の平凡社『哲学事典』(1971年)を引いてみると、このように書いてある。

 カントによれば、悟性は純粋概念の能力と呼ばれ、感性に与えられる素材を自己の形式(範疇)にしたがって整理し、対象を構成する自然界の立法者である。(495ページを一部改変)

 率直に言ってチンプンカンプンである。もちろん今なら、多少はカントについて勉強したので何が言いたいのかわかるが、すでに勉強した人でないと使えない事典ではあまり意味がなかろう。この事典は学生時代に購入したものだが、そういうわけで、学生時代にはあまり活用できなかった。

英語では普通の言葉で語られる

 私の学生時代の話を続けると、あるとき目からウロコが落ちる経験をした。カントの『純粋理性批判』の英訳を読んだときである。この本の原書はドイツ語だが、英訳の題名はThe Critique of Pure Reasonという。何と、「理性」は英語でreason(=理由)なのである。

 これなら中学生の時に習った単語だ。おそらく、イギリスやアメリカなら小学生でも使う言葉だろう。動詞で使えば「推論する」ということで、これは日本ではたぶん小学生は使わない単語だが、英語を見れば明らかなとおり、要するに「理由をつけて考える」ということである。「理性」とは、何のことはない、「理由をつけて考える能力」だったのである。

 そして、くだんの「悟性」はunderstandingと英訳されているではないか。絶句、であった。なんでシンプルに「理解力」と訳さなかったのか。哲学用語の翻訳を作った明治の先人たちが恨めしくなったものである。

 先ほどの哲学事典に書いてあることは、要するに「カントによれば、人は物事を理解するときに、感覚器官に与えられた情報をあるがままに受け取るのではなく、人間の側の理解枠組みに当てはめてしまう」ということである。

 感覚器官に与えられるのは、色や音などの雑多で無秩序なものでしかない。われわれの感覚能力(感性:英語でsensibility)は、それをもとに、「物が空間中にあって、その位置や形が時間的に変化する」というような形に整理する。さらにわれわれは、そうした物に概念を当てはめる。たとえば、「ああ、これは〈犬〉で、あれは〈猫〉だ」などと見て取る。

 そうして知覚されたものについて、「すべての犬は、死ぬんだな」とか、「たいていの犬は茶色だが、ブチの犬もいるんだな」などと判断して理解するのが、「悟性」の役割である。カントが言っていることは、いわば現代の認知心理学が研究しているような話なのである。

「名訳」が哲学を難しくした

 今なら、明治の先人たちの訳語が、哲学用語のギリシア語にさかのぼる語源やニュアンスを汲んだなかなかの名訳ではないかとも思う。ただ、訳語を作るときに、仏教や儒教の概念を援用したり、そこからの類推で訳したりしている。

 そこで、日常では使わないような難解な漢字が使われることになった。また、漢字にはそれぞれ意味があるので、訳語が原語とは違ったニュアンスを帯びてしまう。

 こうしたことから、哲学を理解しようとしたときに、翻訳だけに頼っていては限界があるのである。たとえば、「存在」「本質」「実体」「実在」などは、日本語だけ見ればよく似た言葉で、意味も違いもよくわからないが、英語にすればそれぞれbeing、essence、substance、existenceと、明らかに別の言葉である。

 当然、意味やニュアンスは異なる(といっても、being以外はラテン語起源の言葉だから、哲学的な議論に親しんでいない普通のアメリカ人やイギリス人にこれらの違いを聞いたら、目を白黒させるだろうけれど)。

 もちろん、哲学書の全文を原書で読むのは大変である。しかし、少なくとも単語レベルで、原語が何か、さらにその語源は何かということがわかれば、哲学はずいぶんとわかりやすくなるはずである。なにしろ、英語では、reasonとかunderstandingとか、明らかな日常語で哲学が語られているのである。

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