ハイブリッドな歴史的イメージを有する「戦国のヒロイン」としてのガラシャとは
記事:平凡社
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少しでも日本の歴史に興味をお持ちの方であれば、明智光秀の娘にして細川忠興に嫁いだ「ガラシャ」という洗礼名を持つ人物がいたことを、一度は耳にしたことがあろう。活躍したのは中世から近世へと移行していく頃、織豊期ともいわれる時期である。その生涯を簡単に紹介すると、光秀の娘として生まれ、忠興の妻となった彼女は、本能寺の変により「謀反人の娘」というレッテルを貼られながらも、後半生はみずからの意思で敬虔なキリシタンとなり、信仰生活を送った。しかし、関ヶ原合戦の約二ヶ月前、石田三成を中心とする西軍から人質になるよう求められると、それを拒み、命を投げ出して最期を迎える。このような、乱世に翻弄された悲劇的な大名夫人、信仰に救いをみいだした美貌の「戦国のヒロイン」というイメージが、いまは一般的ではないだろうか(なお、本書でいうイメージ、歴史的イメージとは、歴史上の人物を思い浮かべるにあたり、われわれが心の中に描き出す姿、その人物がいる情景、特徴的な言動や振る舞いを指す)。かかる波乱万丈の生涯は人々を惹きつけてやむところなく、ゆえにガラシャは、日本史上の女性の中でも高い知名度を有する人物となっている。
ただ、そういったガラシャに対するイメージは、どれほど実像を踏まえたものなのであろう。そもそも彼女はどこで生まれ、どのように育ったのか。「謀反人の娘」でありながら、なにゆえ本能寺の変後に殺害されなかったのか。なぜ、キリスト教に入信したのか。どんな信仰生活を送っていたのか。関ヶ原合戦を前に、どうして命を投げ出さなければならなかったのか。その最期を、当時の人々はどのように受け止めていたのか。そして、死後にその生涯はどのように語られ、こんにちまでイメージされてきたのか──。有名なわりに、こういった素朴な疑問がいくつもみいだされる。それに対し、おおよその解答はすでに先学が提示してきているが、一般的には認知されていなかったり、史料的制約により説明が尽くせていなかったりする。新史料の発見や研究の進展により、修正を要する部分もみられる。
かかる状況を踏まえ、かつてガラシャをテーマとする展覧会を企画した経験を持つ筆者は、本書を執筆することにした。第一章から第六章では、学界で進められている最新の研究成果に学びながら、ガラシャの実像をいま描きうる限り描きだしてみる。筆者なりに実像をアップデイトすること、それが目的である。
続いて第七章と第八章では、試論の域を出ない部分も残るが、ガラシャが死後にどのように記憶され、評価され、歴史的イメージとなり、こんにちに至ったのか、という問題を追跡したい。なぜ死後のことを取り扱うのかというと、彼女の場合、その生涯や振る舞いが日本の近世・近代社会で語られるに留まらず、ヨーロッパでも話題になっていたためだ。そして、日本で形成された歴史的イメージとヨーロッパのそれが明治時代後期以降に融合することにより、冒頭で述べたようなこんにちのガラシャ像が、生み出されてきたからである。筆者の知る限り、彼女ほど死後に歴史的イメージが移り変わった人物はそういない。かかる経緯自体がとても面白く、その検証は、読者のみなさんの興味をきっとかきたてるものとなる。
もっとも、死後の問題を取り上げる目的は、別のところにもある。それは、虚像の変遷をたどり、実像とのギャップを把握することにより、さまざまな歴史的事象や人物に対して私たちが抱いているイメージが、しばしばいい加減で、しかも揺るぎやすいものだと、確認してみようという試みである。いささか教訓めいた話になるが、ガラシャの実像と虚像の解明を通じて、「なにについても正確な事実を把握することが重要なのだ!」と再認識する機会になればとも、ひそかに考えているのである。
(中略)
本題に入る前に、頻繁に用いる史料についても少し説明しておく。
歴史の研究にあたっては、史実を復元する根拠となる史料が、いつ、誰により、どういった目的でつくられたものなのか、その性格をよく理解し、活用していく必要がある。通常は研究対象と同時代に記された公文書や手紙、日記などが、信頼性の高い史料とみなされる。
ところが、ガラシャについては、同時代の日本の史料は多く確認されない。自身がしたためた消息一七通の他、親交のあった公家や寺社関係者の日記、関ヶ原合戦を前に迎えた最期の場面に触れた諸将の手紙くらいである。しかも、その内訳は、最期の場面に関するものに集中している。そのため、ガラシャの実像の輪郭を描いていくには、一七世紀後半以降に細川家で編纂されていった家譜類も活用せざるをえない状況にある。
ただ、こうした家譜類の記事には誤りがあったり、典拠が不明な場合も多く、信頼性にしばしば問題がみられる。したがって、『綿考輯録』といった家譜類を根拠としながらも、それを裏づける他の史料に言及しえていない部分については、「まだ検討の余地があるのかもしれない」という意識を持ちつつ、本書をお読みいただければと思う。
それと、キリスト教に改宗したガラシャの動静を詳細に伝え、重要な史料群となるのが、一六世紀半ばから一七世紀前半にかけて来日したイエズス会の宣教師の記録類である。彼らは、布教の状況を伝えるために書簡や報告書「日本年報」をヨーロッパに送付しており、そのテキスト類は彼の地で次々と印刷・刊行された。そして、いまとなっては、それらが当該期の日本史研究の、さらにはガラシャ研究の貴重な史料となっている。
なかには、そうした宣教師の記録に、疑いの目を向ける人もいるかもしれない。ヨーロッパからきた外国人の証言を、ほんとうに信用してよいのか、と。ごく自然な疑問である。ただ、結論からいえば、内容的には信頼の置ける史料群とみてよい[浅見二〇一六]。
たしかに、記事によっては誇張を感じたりするし、反キリスト教的な人物に対する辛辣な論評があったりもする。しかし、それは書き手の性格もあろうし、味方を褒め、敵をよく書かないのは、なにも彼らに限ったことではない。また、イエズス会の宣教師はヨーロッパの大学で学んだエリート集団であり、個人差があるにしても、語学堪能であったとされる。彼らは貴賤を問わずさまざまな日本人と交流しており、書簡や「日本年報」にみえる諸情報は、為政者やキリシタンと接する中でえたものと考えられる。
一例を示そう。ガラシャの死後の細川家では、「雪のサンタ・マリアの祝日」にあたる一六〇一年八月五日に関ヶ原合戦の論功行賞が実施されたが、忠興はそこにイエズス会の宣教師を同席させた。それゆえ、この件は「一六〇一年度日本年報」に記録され、様子がヨーロッパに詳報されている(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』Ⅰ期一七)。その一方、日本の史料では『綿考輯録』巻一七に、慶長六年(一六〇一)七月七日に論功行賞が行われた旨が記されている。日付が異なっているが、これは太陽暦と太陰暦の違いによるズレであり、じつは同日である。このように、日本の史料によりイエズス会関係史料の裏づけをとることも、当然その逆も可能なのである。
なお、ガラシャは宣教師と一度しか会っておらず、彼女の情報については信ぴょう性が問われるかもしれない。しかし、イエズス会関係史料をみていると、ガラシャ自身が宣教師にたびたび手紙を送っていた様子が確認される。また、侍女を教会に派遣する場面も多くあったようである。教会関係者は、彼女周辺の事情をかなり詳しく把握していたとみてよい。記事を信頼して、大きな問題はないと考える。
(以下、略)