近代人かつ反近代人を生き抜いた漱石の「原理的探究」の跡を訪ねて――『哲学する漱石』(上)
記事:春秋社
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世の中を(...)解釈をしようとなれば、またその解釈をある標準以上に巧みにやろうとすれば、ただ漠然二つの眼で世の中を見るというだけでは物足りない、今少しそれに適当した準備の出来た眼が欲しい。この訓練はすなわち学問である。そうしてその学問とはすなわち、広い意味の哲学を措いては他にはない(...)。(「文学志望者のために」)
夏目漱石は小説作家として名を知られる以前、東京帝大の講師として英文学を講義しながら、「文学(Literature)」といういまだ自明のものでも自立的なものでもなく、未分化な何ものかにすぎない西洋からの輸入概念について、その原理的探究を試みていた。
その当時にあっては、「文学研究」ないし「文学理論の研究」とは、漱石が西洋からもち帰ったあらたな学術領域であり、それまでの日本のアカデミアにおいて体系化された理論的な定義・定見はなかったのである。
だからこの頃の漱石もまた、自身が留学先のロンドンで目の当たりにした「西洋近代」および「西洋文学」という自己の既存の内部論理を相対化するような「外」部を、異質な「他者」として体験するなかで、「文学とは何か」、あるいはまた「文学研究とは何か」という問いをあらためて突きつけられていたのである。
漱石が渡英以前に抱いてきた日本の(漢文学をふくむ)「文学」に対する観念や価値の指標は、「英文学」という西洋の先端的理論との衝突によって、激しくゆさぶられ、切りくずされたのであった。
自身が拠って立つ評価基盤を根柢から覆されたことによって漱石は、だからこそ「世界を如何に観るべきや」という根源的問題に立ちもどって考えなおさなければならなかった。そして彼は、「幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だったどっしりとした研究をやろう」と決意するに至ったのである。そのようにして明治40(1907)年、「文学とは何か」を主題にした理論的研究書の『文学論』、そして講演「文芸の哲学的基礎」が発表されたのであった。
漱石はその際、ウィリアム・ジェームズやテオデュール・リボー、ロイド・モーガン、ジェームズ・ボールドウィン等の著作を読み、当時の西洋においても最先端の学知である心理科学や、社会科学的知見などを援用しながら、「文芸の哲学的基礎」を跡づけようとしていたのであるが、そこには「哲学」という語が冠されていた。論究の対象となっているのは文芸理論だが、その究理究明の仕方は「哲学」というアプローチが意識されていたのである。
東京大学で哲学科に在籍した井上円了は、自身が東洋大学の前身「哲学館」を創始した際、あらゆる学問の根柢として哲学を重視し基礎に置いたが、明治初期の学術界において「哲学」の地位は現在よりもむしろ高かったのである。
東京大学における文系最大の学術組織は「哲学会」であるが、そこに漱石も西田幾多郎らと同時期に在会し、学会誌「哲学会雑誌」の編集に携わっていた。彼らにとって「哲学する」という仕方は何らかの学究的営為・方法のフォアフロントだったのであり、漱石が人間にとって「文学」という営みがどのような意味や意義をもつものであるのか問おうとした際、「哲学」という視角をもとうとしたのはひとつの必然でもあったのである。
本書があきらかにしようとしている対象は、主に夏目漱石の「思想」である。漱石を時代の先端的また先験的な「思想家」として見なし、漱石がいかにして思想したのか、その内的理路をなぞりかえしている。とはいえ、本書は漱石思想の全幅を隈なく見わたすことよりも、漱石が文芸をつうじて思想した「自己本位」と「則天去私」との相克という難問にねらいを定めている。したがってそれは、「自己(私)」と「天」とのあわいを哲学する、近代日本における「超越」の思想課題を問いなおすということでもある。
「自己」とその「超越」という問題は、近代日本の思想家たちにひろく共有されていた明治後期における時代精神の思想的課題であった。「近代自己」のエゴイズムの籠絡から遁れることはいかにして可能か? また、「自己本位」を生きる「自己」が、いかにして「天に則して私を去る」ことを成就しうるのか——。そうした思想領域において漱石は、「無我」・「無私」といった伝統的・前近代的な観念を、「自己超越」の思想として方法的にも近代化しながら、近代黎明期の宿命的な思想課題を生きたのであった。むろん小説や漢詩などの文学作品の実作という創作行為から離れることなく、むしろその求道をつうじて。
本書のねらいは、そうした漱石が歩んだ精神の地誌を辿りかえすことにある。そして彼の作家人生の終局に見いだせる「則天去私」とは何であったのか、逆に何ではなかったのか、その内実をあきらかにすることにある。とりわけ、「則天去私」という「超越」が、それが「近代自己」を捨象することなく、むしろ与えられた天分のなかで「自己本位」という「己を尽くす」営みによるものであったことを論じた点に、本書の特色があると言えるだろう。(次回につづく)