「アンテクレオール」(クレオール以前)の民話の世界へ ――『カリブ海アンティル諸島の民話と伝説』
記事:作品社
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本書『カリブ海アンティル諸島の民話と伝説』は1957年にフランスで出版され、今でもペーパーバックで流通するロングセラーである。原文ではフランス語の文章にところどころクレオール語が用いられ(翻訳ではふりがなになっている)、郷土色豊かな物語が34話収録されている。「むかしむかし」で始まるようなおとぎ話から荒唐無稽な笑い話、実在の人物にまつわる伝説までジャンルも幅広い。著者テレーズ・ジョルジェルがいかなる人物か、アンティル諸島で子供時代を過ごしたらしいこと以外は不明だが、初版から拝借した表紙がひとつかぎになるのかもしれない。表紙のイラストでは当地で民話が語られる状況が再現されており、黒人の子供たちに囲まれた乳母の膝にひとり白人の少女が描かれているが、著者本人の当時の姿を再現したものではないかと推察される。
民話は各地に存在するが、驚くべきは地理的にも、文化的にも、言語的にもかけ離れ、どう見ても関係ないような国や地域のあいだで類話が見つかることである。日本であれば韓国や中国に類話があっても驚くことはないし、たとえそれがインドであっても仏教とともに伝来したのだろうと見当がつく。ただ少々わけが違ってくるのは、桃太郎にそっくりの民話がカリブ海にある場合である(本書第七話「ヴァヌス坊や」)。どこかに共通の起源があって日本とカリブ海に伝播したのか、それぞれ独自に発生したのか、あるいは人類に共通する集合的無意識が昔話というかたちで表出したのか。
ヨーロッパから来た植民者たち、アフリカ各地から連れてこられた奴隷たち、奴隷制廃止後にインドや中国から渡ってきた年季奉公たち、オスマントルコから逃れてきた中東のキリスト教徒たち、世界各地の船乗りたちによって伝えられ、さらにそれらが混ざり合い、土着化してカリブ海の民話がある。カリブ海の民話が他に比べて特異なのは、先住民の文化がほぼ根こそぎになったせいで先史時代がないため、歴史的にその由来がある程度まで追えることである。
カリブ海で有名なずる賢いウサギを主人公とする動物民話は、アメリカ南部でもアンクル・リーマスの物語として伝わっており(邦題『うさぎどん、きつねどん』)、その起源がアフリカ人奴隷であることがわかる。またフランスのペローやドイツのグリム兄弟の民話集に収録された「灰かぶり」ことシンデレラのカリブ海版(第十二話「美しい娘は桶の下」)はヨーロッパ由来に違いない。ただ民話が一筋縄でいかないのは、ウサギ民話の類話が北米大陸先住民にもほぼ同じ話が存在することであり、中国唐代の随筆集に記された逸話「葉限」がカリブ海ではシンデレラの類話であるだけではなく、別の少女と魚の恋物語(第二十七話「テザンとジリアの恋」)の元となっていると思われることである。
これまで日本でもカリブ海の民話はいくらか紹介されている。小泉八雲『クレオール物語』収録の「クレオール民話―三題」、カリブ海マルチニックの小説家パトリック・シャモワゾー『クレオールの民話』がある。前者はタイトル通りわずか3話だけで物足りない。後者はクレオール性のバイアスがかかっており、フランス語圏カリブ海の民話を代表するものかといえば疑問である。原作が半世紀以上前の本書はいわば「生(き)のまま」で、民話一般に見受けられる残酷さにも、カリブ海特有の人種的な偏見にも事欠かない。ときには世の不条理がウサギやトラなど動物寓話、神や悪魔など人間を超越した存在が司る教訓譚となって語られる。是非はさておき、本書は昨今なにかとかまびすしいポリティカルコレクトネスとは程遠い、1世紀ほど前のプランテーション社会では当たり前だった理不尽を忌憚なく映し出す鏡のような作品である。
カリブ海文学はコロンブスの「発見」500周年にあたる1992年から世界的に盛り上がりを見せた。日本でも2000年ごろにかけて、「グローバル」に対する「クレオール」として注目を浴びてブームが起こり、クレオールと題した書籍が少なからず出版された。その当時頭角を現していた先述のシャモワゾー、同郷で同世代の小説家ラファエル・コンフィアンが主張するクレオール性があたかもカリブ海の主流であるかのように紹介された。
ますます進行するフランス本土への同化政策に対する反発、失われゆくプランテーション社会を母胎とする地元文化の擁護、またそのような進展を推進したマルチニックを代表する詩人かつ政治的指導者エメ・セゼールに対する批判が、クレオール性作家の反動的立場だった。ただ日本では、彼ら自身の表現を借りれば「アンテクレオール」(クレオール以前のもの)が未消化のままで、クレオール性の後に紹介されるという奇妙なねじれが生じた。本書もアンテクレオールのひとつで、実際にシャモワゾーによる民話集の典拠になっている。
ちなみに同様のことが日本の西洋史学でも起きていることを、鹿島茂がギヨーム・ド・ベルティエ・ド・ソヴィニー『フランス史』の監訳者あとがきで述べている。日本の西洋史学が成立し始めた第一次大戦後は実証主義からマルクス主義への移行期にあり、日本ではそれに先立つ王室中心の物語史観も実証主義史観もないまま、マルクス主義からアナール派へ至ったため、その前提としてあるべきフランス通史がなかったのだという。
フランス語圏カリブ海文学も同様で、その前提となるネグリチュードもアンティル性もないまま、クレオール性から始まった。一過性の注目を脱却するには、古きを温めて新しきを知るためのアンテクレオールが必要不可欠である。