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科学が浸透すれば宗教は滅ぶ? 『救済のプラグマティズム』とウィリアム・ジェイムズの宗教論

記事:春秋社

科学が目覚ましく発展する19世紀中葉にウィリアム・ジェイムズは生まれた。
科学が目覚ましく発展する19世紀中葉にウィリアム・ジェイムズは生まれた。

宗教と科学の現在地

 エルサレム旧市街にあるユダヤ教の聖地「嘆きの壁」。2017年5月、現役のアメリカ大統領(当時)として初めてこの地を訪問したドナルド・トランプ氏は、ヤムルカと呼ばれるユダヤ教徒の帽子を被り、そこで1分近く目を閉じて祈りを捧げた。同年末にアメリカはエルサレムをイスラエルの首都として認定、翌年にはアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転した。イスラエルは1976年に第三次中東戦争で東エルサレムを併合して以来一貫してエルサレムを首都と主張しづづけているが、国際社会はこの主張を認めることを避けてきた。西エルサレムを将来の首都にすることを目指すパレスチナや、友好関係にある中東各国に配慮してのことである。

 この慣例を破ることで中東情勢に一石を投じたトランプ大統領の一連の動きは、彼の支持層の一つでありイスラエルとのつながりが深い、福音派とよばれるキリスト教の一派に配慮したものとも言われる。アメリカではこうした宗教票が大統領選の結果を左右するだけでなく、人工妊娠中絶の是非や、ワクチンを巡る言説などで宗教的保守層が影響力を持っており、宗教が国民の命に直結するような問題をも左右しているのが現状である。

 ヨーロッパに目を向けても、たとえばドイツで16年間首相を務めたアンゲラ・メルケル氏はキリスト教民主主義を掲げる政党「キリスト教民主同盟」の出身であるし、欧州全土で近年顕著になった移民排斥の一部はイスラモフォビア(イスラム教嫌悪)に裏付けられている。日本でも外国人観光客の受け入れに際して、たとえばイスラム教におけるハラルのような宗教上の禁忌をもつ人びとをもてなすため、飲食や旅行業界で様々な取り組みがなされていた。現代においても宗教が社会や政治、外交に対して大きな影響を有しており、無視することのできない存在であるようだ。

「嘆きの壁」の前で祈りを捧げるユダヤ教徒たち。
「嘆きの壁」の前で祈りを捧げるユダヤ教徒たち。

 ――科学が浸透すれば宗教は衰退する。日本ではそのような感覚を持つひとも多いかもしれないが、果たしてそう言い切れるだろうか。日本では宗教というと特定の集団、なかんづく新興宗教をイメージしがちだが、個人の信仰という側面に光を当ててみてはどうだろうか。たしかに祈りのために神社や寺院に参拝することは少なくなったように見えるし、無宗教葬や直葬を選び、散骨や樹木葬、宇宙葬を希望する人が増えているように、宗教儀礼は衰退しているようにも見える。神社仏閣への参詣や儀礼も、信仰というよりは文化や慣習として残っているもの、という感覚の人も多いだろう。

 しかし、新たに生まれる葬儀のあり方ひとつとっても、それは裏返せばいまだに遺体を丁重に扱い、遺骨をなんらかのかたちで適切に処理してほしい、処理してあげたいと望む人が多いという証左でもある。人は、死んでしまった人が自分たちとともにいたことを折に触れて追憶し、彼らに哀悼の意を表しては鄭重に弔いを捧げるし、自分が生まれてきたことの意味を問うて科学では説明のつかないことに答えを求めることもあれば、人生における不安を前にして、何かに縋ることなしに心の安定を保てないこともある。

 死んだらただのゴミになる。科学と技術の恩恵が生活のあらゆるところに浸透した今でも、そんな唯物論的な死生観が浸透している訳ではない。たしかに既存の宗教団体への帰属が緩くなったようだが、それとはべつのかたちで、人はいまだ信仰を持ち、ときに救済を求めているのであろう。

 しかし現代の科学が明らかにすることは、宗教が説くさまざまな教えとはかけ離れている、あるいはときに宗教の教えを否定するようにさえ見える。科学と宗教は対立していて、いつか科学が生活のすべてに浸透すれば、いずれ宗教は滅びてしまう運命なのだろうか。それとも科学的な世界観が浸透する世界において、信仰を守ることは可能なのであろうか。

科学の時代とウィリアム・ジェイムズ

 ヨーロッパでは長らく、科学的な真理の探究は宗教的な営みであった。Scienceの語源はラテン語のScientiaであるが、これは知識全般をあらわすものであって、キリスト教世界においてそれは神の創造した世界について知る、ということと不可分であった。中世に生まれたヨーロッパの大学も、多くは修道会によって設立されたものであったし、コペルニクスやニュートンは「科学者」ではなく「宗教者」だった――言い換えれば、宗教的な基盤に立って真理の追究を使命とする者であったのである。

 しかし、近代に飛躍的な発展を遂げた科学は、宗教的な世界像を確実にするものではなかった。元々宗教から生み出された学究の営みは、いつしか「科学」として独立し、宗教とは別々の道を歩むことになる。そうした背景を背負って19世紀後半、日進月歩する科学の可能性を信じつつも信仰の可能性を絶えず追求しつづけたひとりの科学者であり哲学者がいた。それが、本書で取り扱うウィリアム・ジェイムズ(William James, 1842-1910)である。

 ジェイムズは宗教思想家ヘンリー・ジェイムズの長男として生まれた(なお、父と同名の小説家ヘンリー・ジェイムズはウィリアムの弟である)。ハーヴァード大学で医学の学位を取得した彼は、キャリアの初期においては生理学や解剖学を教えており、学者としての出発点は科学にあった。ジェイムズはアメリカにおける「心理学の父」として、あるいは心理学上の「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」というジェームズ=ランゲ説の提唱者としても知られるが、彼が心理学を新しい学問として打ち立てたのは、心理を科学的に説明する枠組みを構想したからだった。のちにジェイムズの専門は哲学へと移行し、科学から距離を置いたようにも見えるのだが、躍進を遂げる科学のなかで研鑽を積んだ意味は大きく、彼の哲学の中心にはつねに科学的な姿勢があった。

ウィリアム・ジェイムズの肖像。出典=MS Am 1092 (1185), Houghton Library, Harvard University.
ウィリアム・ジェイムズの肖像。出典=MS Am 1092 (1185), Houghton Library, Harvard University.

 それでは、彼の科学観とはどのようなものだったのだろうか。ひとことで言いあらわすのは難しいが、重要な点をひとつ挙げれば、彼にとって科学とはひとつの「方法」であった。科学者が研究を行うさい、対象についてなんらかの仮説を立て、それを実験や観測によって検証する。ジェイムズにとって科学とはこの、検証というプロセスによって仮説を精査してゆく方法、を意味するのであった。

 科学の可能性を強く信じていた彼だが、それはいわゆる科学万能主義とは大きく異なる。彼は「私たちの科学は一滴、私たちの無知は海」という謙虚な科学観を表明し、科学が明らかにできるのはわれわれの世界のごく一部にすぎない、と考えていた。科学によって知見を積み重ねればその背後にある理を実証できるという考え方(=実証主義)を批判し、どんなに検証を積み重ねたところで、それがこの世の中の同様の現象すべてを説明するに足りる根拠になるとは考えてはいなかった。科学が宇宙の事象すべてを説明できるわけではない。したがって、この世界が物理現象だけでできていることを、科学は証明できないのである。

 ジェイムズにとって、宗教もまたこの「方法としての科学」の延長にあった。つまり、われわれの生活のなかで行う行動は、宗教的な仮説を実証するためのテストであり、精査する過程であるというのである。科学者がこの宇宙の事象を観察し、仮説を立て、実験や観測を経て仮説の検証を繰り返すように、われわれもまた人生における様々な経験を通じて、信仰をひとつずつ確なものにしていっているのだという。

プラグマティズム哲学と宗教

 ジェイムズといえばプラグマティズムを普及させた哲学者としてもまた有名である。これはチャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce, 1839-1914)が提唱し、ジェイムズやジョン・デューイらが普及させたアメリカ発祥の哲学で、近年では「ネオ・プラグマティズム」という形で継承されている。もともとパースがプラグマティズムを提唱したのは、ある概念を明確化するための手法としてのものだった。たとえば「固い」という語は多くのものによって傷つけることでできないこと、「重い」ということは抵抗する力がなければ落ちるということ、といったように、行動の帰結を想定することで概念を明確にするのである。ジェイムズは真理性という観点からこのプラグマティズムを拡大解釈し、ある仮説が妥当であるかどうかは、その仮説が上手く働くかどうかによって判断できる、という規準を設定した。

 ひとことにプラグマティズムいうと、通俗的な「役に立つことが真である」という単純なイメージが伴うことがある。「あの人はプラグマティストだ」といえば、それは「あの人は結果さえよければなにをしてもいいと思っている」の言い換えとして使われるように。たしかに有用性というのはジェイムズのプラグマティズムにとって重要ではあるのだが、「上手く働く」ためには、他のさまざまな仮説とのあいだに矛盾や不都合をきたさないものでなければならない。有用性ばかりが注目されてしまいがちだが、この整合性という規準もまた重要であることは、強調しておく必要があろう。

 では、この有用性と整合性というふたつの観点から、改めて宗教を見てみるとどうだろうか。有用性にかんして言えば、宗教を信じることがそのひとの人生においてなんらかの光明をもたらすのであれば、それは有用であることは明らかだ。一方、他の諸仮説との整合性を考えたとき、宗教的な信念は、いかにそれが役に立つものであったとしても、科学の提示するものと矛盾があってはならないのである。さきほど、宗教も科学と同様に仮説と検証のプロセスであることを確認したが、宗教も科学と同様、人生におけるさまざまな経験を通じてつねに検証にさらされ、仮説を精査し洗練させなければならない。単純に信じて救われれば良いということは、決してない。

科学と宗教は相補的な関係にあると考えるのがジェイムズの宗教論の特徴だ。
科学と宗教は相補的な関係にあると考えるのがジェイムズの宗教論の特徴だ。

 しかし、こうして見てみると、科学と宗教は決して対立関係にあるわけではない、ということが分かるだろう。宗教が科学と調和するよう仮説をつねに精査するのと同様に、科学もまた個人の経験するさまざまな事象を説明できるよう、精査されなければならないからだ。そして人が経験する体験はときに、現代の科学では説明の及ばない不思議なものだったり、突然天からのお告げを受けたように強烈なものだったりする。科学はそれら「超自然的」と言われるような個人の経験をも説明できる必要がある。

 ジェイムズはこのように、個人の経験を決して否定することなく、経験に即した説明を追求する。彼は長らく、心霊研究に深く関わっていたのだが、これもまた人びとが経験した様々な超自然現象を、科学の枠組みにおいて理解しようとしたのである。そして放射線の発見などによって目に見えない事象がつぎつぎと解明されていた当時、心霊現象を科学によって説明することは、決して無謀な営みでも、オカルト趣味でもなかった。

 ――科学の時代に救済は可能なのか。この問いにジェイムズは、個人が救済されるという事実の側に立って思考する。その思想は人びとの経験に寄り添って、温かみに満ちている。科学の進歩がジェイムズの時代よりもさらに顕著な現代、つぎつぎと新しい技術が生み出されている一方で、人間がむしろ技術に支配されるのではないかという懸念さえ現実のものになりそうだ。改めていま、われわれは問われている。

 科学は人を幸せにするのか?

 科学を相対化しつつも、その可能性を信じ続けたジェイムズの思想は、科学の恩恵を受け入れつつも救済を求めるわれわれにとって、あたたかなよりどころとなるだろう。

(文・春秋社編集部)

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