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そこから文化が始まった大きなできごととは?  マリノフスキー『未開社会における性と抑圧』より

記事:筑摩書房

original image: winterbilder / stock.adobe.com
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 トーテミズムとタブー、外婚制と供犠の劇的なはじまりに関するフロイトの理論は、精神分析の立場から人類学について述べた著作のうちでも、きわめて重要なものである。それはこのエッセーのように、人類学上の発見に、精神分析の視点を合致させようと試みているエッセーにおいては素通りすることのできないものなのだ。こういうわけなので、われわれは、その理論をこまかく批判的に分析するこの機会をのがすまい。

 彼の著書、『トーテムとタブー』で、フロイトは、エディプス・コンプレックスの観念が、トーテミズム、義母を避けること、祖先崇拝、近親相姦の禁制、人間とトーテム動物との同一視、父なる神という観念などを説明するのに、いかに役立つかを示している。実際、エディプス・コンプレックスは、われわれが知っているように、精神分析学者たちによって文化の源泉、文化の発生以前に生じたものと考えられているのであるが、この本のなかでフロイトは、それがいかにして生じたかという仮説を綿密に述べている。

 このなかでフロイトは、ダーウィンとロバートソン・スミスという二人の著名な先輩の例にならっている。ダーウィンから、彼は「原始群」(Primal horde)、あるいはアトキンソンの表現によれば「巨大家族」(the Cyclopean-family)という観念を借用している。この見解によると、家族や社会生活の最初の形態は、多くの女性と子供をしたがえた成熟した男性に率いられ支配された小さな集団から成っていた。もう一人の偉大な学者ロバートソン・スミスから、フロイトは、トーテム聖餐の重要性について示唆を受けた。ロバートソン・スミスは、最初の宗教的行為は、氏族のメンバーがトーテム動物を儀礼的に食べる共同の食事から成っていた、と考えている。ほぼ普遍的であり明らかにもっとも重要な宗教的行為である供犠は、後になってこのトーテム共食から発生したものだ。日常生活でトーテムとされている種を食べてはいけないというタブーは、儀礼的共食の否定的側面を構成している。この二つの仮説に、フロイトは自分自身の仮説をつけ加えている。すなわち、人間とトーテムとの同一視は、子供、未開人、神経症患者に共通な心性の特徴のひとつであり、父親を何か不快な動物と同一視するという傾向に基づいている、という仮説である。

 ここではわれわれは、第一にその理論の社会学的側面に興味があるので、フロイトの理論の基礎となったダーウィンの著書の一節全体を引用しておこう。ダーウィンはこう言っている。「われわれは、ライバルと闘うために特別な武器で武装したすべてのオスの四足獣が感じる嫉妬心について知っていることから、自然の状態における乱婚はまったく起こりそうもないことだ、と結論してもいいだろう……こういうわけで、もし、われわれが時の流れをずっと以前まで遡れば、いま存在している人間の社会的習慣から判断して、人間はもともと小さな共同社会に住み、男たちはそれぞれ一人の妻、もし力があれば数人の妻をもち、他のすべての男から妻を油断なく守ったという見解が一番妥当なようだ。あるいは、彼は社会的動物ではなかったかもしれないがそれでも、ゴリラのように何人かの妻と生活していたと考えられる。というのは、すべての原住民が、ひとつの群には成熟したオスは一匹だけしか見られないという点で一致しているからだ。若い男が成長すると支配権をめぐる争いがおこり、他の者を殺したり追い出したもっとも強い者が、その共同社会における長としての地位を確立する(Boston Journal of Natural History vol. v., 1845-47のなかのDr. Savageの論文より)。こうして、追い出されてさまよっている若者も、ついに相手を見つけることができた際には、同じ家族内でのあまり近い近親交配が起こらないようにするだろう。」

 この部分では、ダーウィンが人間とゴリラを無差別に論じていることを、すぐに指摘できる。かといって、われわれが人類学者として、この混同について彼を非難しなければならないという理由は何もない──ささやかながらわれわれの科学にできることは、われわれの類人猿仲間に関するわれわれのあらゆるうぬぼれを追い払うことでしかないのだ! しかし、人間と猿のちがいが哲学的に意味のないことであっても、類人猿の家族と組織された人間の家族とのちがいは、社会学者にとってきわめて重大なことである。社会学者は、自然の状態における動物の生活と文化における人間の生活とを、はっきり区別しなければならない。乱婚という仮説に反対して生物学的な議論を展開していたダーウィンにとっては、その区別は無関係なことだった。もし彼が、文化の起源を論じ、その誕生の時点を定義しようと試みていたのなら、自然と文化を区別する一線はまったく重要なことになっただろう。フロイトは、後にみるように、「そこから文化が始まった大きなできごと」を把握し表現しようとしたが、この区画線を見失い、臆説によって文化が存在するはずもない状態のなかに文化を想定することにより、完全に失敗した。さらにダーウィンは、その集団のリーダーの妻たちだけについて述べ、他の女については何も述べていない。彼はまた、追放された若者は、結局相手をみつけ親の家族については二度と心をわずらわさない、と述べている。フロイトはこの両方の点に関して、ダーウィンの仮説を実質的に変形してしまっている。

 私の批判を実証するために、この精神分析の巨匠のことばを引用させてほしい。フロイトはこう言っている、「ダーウィンが考えた原始群にはむろん、トーテミズムが成立する余地はない。単に女達を自分のために引きとめ、成長した息子達を追放する乱暴で嫉妬深い父親がいるだけだ」。つまり年とった男が、自分のためにすべての女を引きとめる一方、追放されたむすこたちは、あの仮説上のできごとを起こすことができるよういっしょに群れをなして近くに残るという具合になっている。そして、仮説的であるとともにぞっとするような犯罪がわれわれの目の前に展開するが、それは、人間の歴史にとってではないにせよ、精神分析の歴史のうちで最も大きな重要性をもっている。というのは、フロイトによると、この犯罪が未来の文明すべてを生起させることになっているからである。「この犯罪によって文化が始まり、爾来人類は安らぐことを許されなくなった」のである。それは「原初の行為」であり「社会組織、道徳的な規制、宗教の発端となった重大な、犯罪的な行為だ」。さて、このあらゆる文化の根源的な原因についての物語を聞こう。

 「ある日、追放された兄弟は力をあわせて父親を殺害して食べてしまい、こうして父親の群れを滅ぼした。彼らはいっしょになって、単独では不可能だったことをあえて成しとげた。おそらくあたらしい武器の使用のような文化におけるある進歩が、彼らに優越感を与えたからだろう。これらの人喰い人種は当然のことながら彼らが殺したものを食べてしまった。この乱暴な原初の父親は、確かに、兄弟たち各人にとってうらやみ恐るべき模範だった。そこで彼らは、父親を食べることによって彼との同一化を成しとげ、それぞれ父親の強さの一部分を得た。トーテム饗宴は、たぶん人類最初の祭儀だろうが、この重大な……行為の……反復であり、記念なのである」。

 これが人類文化の最初の行為なのであるがこの記述のなかほどで著者は、「文化におけるある進歩」、「新しい武器の使用」について語っており、こうして、前文化的段階にある動物が文化的財産と道具をもっていたと想定している。どんな物質的文化財も、組織やモラルや宗教が同時に存在しなければありえない。まもなく私が示すように、これは単なるこじつけではなく、いまの問題の核心にかかわる点だ。われわれは、フロイトとジョーンズの理論が、それ自体が文化の存在を前提とするような過程によって文化の起源を説明しようとし、このために循環論法におち入っていることを示そう。彼らの理論に対する批判は、実際、文化過程とその生物学的基礎の分析そのものへわれわれを導くだろう。(阿部年晴・真崎義博 訳)

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