「生きる」ことは「対話する」こと――よりよき状態を思索するために 紀伊國屋書店員さんおすすめの本
記事:じんぶん堂企画室
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最初に紹介したいのは、桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』(岩波書店)です。文学・哲学・美学・言語学・心理学・文化人類学など、人文学の幅広い領域におよぶ著作を生み出した、20世紀ロシアの思想家ミハイル・バフチン。彼の対話論は主として、19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーの小説を引き合いに、元々は文学研究のなかで語られているものが多いのですが、本書は対話について直接かかわるテクストの引用を中心に、それらを丁寧にひも解きながら展開されてゆきます。
「生きる」ことそのものが「対話する」ことだというバフチンは、ことばの交換のみならず「人間の生のあらゆる関係やあらわれ」にも、対話的な関係を見出していたようです。さらに、人間は未完結で未完成な存在であるとし、それゆえ互いに未完の存在として対等な人格とみなすこと、つまり相手を一方的に決めつけないことが、対話における最低条件であるといいます。読み進めるうちに、バフチンによる「対話論」は、生きていくための、そして自分以外の世界とかかわっていくための、なにか「態度」のようなものであるとさえ、思えてきます。
バフチンは、対話とはお互いを豊かに変えるための「闘い」であるとしていますが、そのような意味での対話におけるダイナミズムを強く感じたのが、二冊目に紹介する竹端寛『「当たり前」をひっくり返す バザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた「革命」』(現代書館)です。
イタリアの精神病院廃絶の法制定の原動力となり、医療改革を行なった精神科医のフランコ・バザーリア。障害者に一般市民と同様の生活・権利を保障する環境を整備する「ノーマライゼーション」の原理を広めたスウェーデンのベンクト・ニィリエ。従来の「銀行型教育」を批判し、「問題解決型教育」「意識化」などの思想が教育のみならず、民主政治のあり方にも影響を与えた、ブラジルの教育学者パウロ・フレイレ。同時代をそれぞれの場所で生きた3人が既存のシステムに疑問を持ち、周囲を巻き込みながらついに、「当たり前」をひっくり返した物語です。
たとえばバザーリアは、自身が院長を務める病院で行なわれた、患者も医療者も自由に発言ができるアッセンブレア(対話集会)を通して患者の真のニーズを知ることとなり、さらにそれまでの精神医療の体系そのものに対しても疑問を抱きはじめ、抜本的な改革をスタートさせます。同様にニィリエもフレイレも、いわば「管理・支配される側」の声を聴き、対話していくなかで、それまで「当たり前」とされてきたことを疑い、よりよき状態を思索するにいたります。
3人に共通するのは、「対話すること」を通して気づきを得、それをもとに実践を重ね、状況を変えていった点。読み進めていくなかで「真理は、ともに真理を探求する人びとのあいだで、またそうした人びとの対話的交通の課程で、誕生するのである」というバフチンの言葉が、思い起こされました。著者の竹端さんは福祉社会学、社会福祉学のご専門ですが、本書はジャンルにとらわれることなく、現状に閉塞感を抱いている方にとって、風穴をあけるための大きなヒントをもたらしてくれる一冊となることでしょう。
最後に紹介するのは、ドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』(新潮社)。娘の誕生の際の強烈な体験を経て、そこから自身の生い立ちにさかのぼる、いわば自伝的エッセイになるのですが、ドミニクさんのバックグラウンドにある哲学、科学、情報技術、アートそして言語といった幅広いジャンルにわたりながら、瑞々しく綴られています。自分以外の環世界に触れたときの驚きや喜び、そしてそれによってもたらされる気づきは、他ならぬ自分自身との内なる対話からもたらされるものなのだと、本書を読むとあらためて感じます。
表現行為は、決して作者のうちに完結しない。そうではなく、受け取り手が表現された領土を自由に探索し、そこから新しい価値を自らの領土に取り込む運動を通してはじめて、成立するのだ。ドミニク・チェン「未来をつくる言葉」(p.70)より
ドミニクさんの世界に対する向き合い方は、ここまででみてきたバフチンの対話論にも重なる部分があるように思います。
この3冊を読み終えて、「生きる」ことそのものが「対話する」こと、というバフチンのことばはもはや大げさなものとしては感じられず、あらためて見直し、こころに留めておきたいものとして、いま響いています。