『定義集』の哲学講義から見えてくる、アランの哲学思想の全貌
記事:幻戯書房
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短くて数行、長くて20行程度のいわゆる定義を、毎週、たったひとつだけ取り上げて、徹底的に吟味したのでした。学生さんたちには、予習をしてもらうために、最初は『定義集』(森有正訳、みすず書房、1988)を買ってもらっていました。しかし、2003年に岩波文庫で神谷幹夫さんの訳が出版されたので、そちらに移行しました。理由は、学生さんの費用的負担がその方が軽かったからにすぎません。
講義では、両者の訳を私が検討し、その上で私自身の訳を提示しつつ、註解を施したのです。「哲学」の講義ですから、関連した基礎知識を埋め込みながら進むには適切なテクストだとつくづく感じたものです。講義の仕方も次々に進化したと言っていいでしょう。受講生の多くは大学1年生の学生さんたちで、しかも4月から7月までの講義ですから、まずフランス語を読める人はいません。それでも原語を欲しいという学生さんにはコピーを渡して、必死に辞書を引くことを促したのです。講義中には、PDF化した原語のフランス語をパソコンからプロジェクタでスクリーンに映し、訳語との比較対照から説き起こすこともしばしばでした。毎週の授業開始時に配るプリントは、私自身の翻訳と、関連した語彙の入っているアランの文章を他の著作からピックアップしたものから始めました。この資料作成に役立ったのが、以下の資料です。
修士の学位論文を書く際に、専門的にまずは研究する哲学者として選んだライプニッツに関する〈読んだ資料からの抜き書き〉を、私はB6判の、いわゆる「京大型カード」と呼び慣わされていた情報カードを用いてつくり始めていたのですが、それはだんだん拡大して、専門のライプニッツの本に限らず、すべての本の〈抜き書きデータベース〉へと成長します。アランの本も例外ではありません。初めは、こうして紙のカードとして構築が始まったものですが、枚数が増えたことによる検索の不便さからコンピュータ上のカード型データベースへと移行します。それを講義資料の作成に際して、検索し、プリントをつくるのです。この作業の効率化のために、データベース作成に関しては音声入力を用いるようになり、作成した(アラン以外の)多くのデータベースをも検索するためにカード型データベースからコンマ切りテクストファイル(csv)としてすべてを読み出して「マルチファイル検索」のできるエディタ(現在使用しているのは、Jedit Ω)〔※2018年当時で、今現在はmi です〕で検索するようになります。こうしたデータベースの作成と検索を実行してみると、それまでは明確に意識されなかったことが明るみに出てきました。テクスト間のリンク構造です。種々のテクストがいろいろな仕方で結びついていることがだんだん見えてくるのです。間テクスト性(intertextualité)と言ってもいい。森訳は、少なくともこの『定義集』の内部でのリンクを強く意識しながら訳していました。実際、彼の翻訳では、ある定義の中に他の箇所で定義される言葉が入っていると、それに原語のフランス語を挿入して、読者がそれを意識できるようにしよう、という配慮が見られます。相互参照(クロス・リファレンス)を強く意識していたと言うべきでしょう。そして、実を言うと、こういう事態を明確にし、読解や執筆に役立てようとするものこそ、現在では皆が、ウェブ・ブラウザを使用する際に、知らぬ間に使っている「ハイパーテクスト」というシステムです。
ハイパーテキストとは、全てのテキストが互いに関係している「動的リファレンス・システム」だ。電子的に間テキスト性(インターテキスチュアリティ)を有するにとどまらず、全てのテキストのテキストなのであり、スーパーテキストとなっているのである。〔マイケル・ハイム『仮想現実のメタフィジックス』41頁〕
こんなことを言うと、アランから遠く離れたお話のように聞こえるかも知れません。しかし、そうではない。彼は、散文(prose)についての深い考察の中で、非常に近いことを述べているのです。
真の散文は決して自分を束縛することなく、仮定し、試みる。このように散文は提出し、説明するのであるから、ここでは、結論を証明するのが原理なのか、それとも原理を証明するのが結論なのか、もはやわからないくらいである。そしてひとつの思想においては、一要素が他のすべての要素を確保するというのが、また観念は説明されたかぎりにおいて、それ自身によって証明されているというのが、事実である。このことは散文がその独特の方法によって見事にきわだたせることである。けだし散文芸術のすべては、各部分がその所を得 、相互に支持し合うに至るまで、読者の判断を定着させないでおくことにあるのだから。そして昔の人がこれを「束縛を解かれ(スティル・デリエ)」た文章〔style délié〕と呼んだのは、こうして散文の読者は自由であって、勝手に歩み、好きな時に立ちどまり、好きな時に歩みかえす事実を巧みにいい現わしたものである。〔アラン『芸術論集』156頁〕
「すべてはいっしょに考えられねばならぬ」〔アラン『芸術論集』154頁〕とアランは言うのです。「一挙に」と言ってもいい。継起的に辿られてきた事柄が一挙に直観へと移行するような、そんな趣きがあります。
こうしたことを考えつつ、私は、単に〈私による翻訳と抜き書き資料〉にすぎなかった講義用プリントを、ついに〈講義草案そのもの〉へと変化させます。私が講義で話す口調そのものである資料が学生さんに配られることになったのです。上述のリンク構造を明確に意識した散文そのものを渡すことにしたのです。ハイパーテクストが、リンクを辿って一気に別のところへ飛んだりするのは、繰り返しますが、インターネットのウェブ・ブラウザで経験済みの方がほとんどでしょう。ネット・サーフィンをしている間にも、確認のために、もとに戻ったりする。本を読むときだって、同じはずです。そのことを私は講義草案にまで及ぼすことにしたのです。関連箇所にリンクをつけるような気持ちで、何度でも戻ってみるということです。プリントされる講義資料には、その授業で扱われる定義に関連しつつ別の箇所への参照が頻繁に行われるわけで、同じ箇所が指示されることも結構ある。それは繰り返しプリントに登場するということです。
本書の各定義の解説においても、そういう方針は変わりません。むしろ、それによってこそ、ある文章が別の側面から照らし出されるという事態を大事にしたのです。講義草案の中でのリンク構造、講義草案から引用文献へのリンク構造を意識したのです。いや、それだけではない。毎時間の授業終了前の10分ほどを使って、学生さんたちに、講義に関する感想・質問・批判・次回からの講義への要望をリアクション・ペーパーないしリアクション・メールとして提出してもらったのです。それを毎週、全部読み、その中から抜粋して引用し、私のコメントを加えて、それもプリントしました。しかも、書いてもらった文章の中から、講義中に取り上げてコメントするのが望ましいと私の判断したものについては、個人情報を削除した上で抜粋しながら、ワープロにコピペしてプリントを作り、次回の講義で配って、そのうちいくつかについては解説をするのです。これが、どういうことを意味するかはおわかりですよね。学生さんの思索の営みと、私自身の思索の営みとの間にも、リンク構造を付け 、それを授業という場において発展させようということなのです。