団塊の世代が直面したコロナ禍のハードル ――ある大学教授によるオンライン授業の厄介な試み
記事:幻戯書房
記事:幻戯書房
パンデミックが続く2021年2月、建国記念の休日に電話が鳴った。このコロナ禍で一年以上会えていない、村上玄一さんからだった。
村上玄一さんは、私が駆け出しの編集者だったときの上司だ。日本大学芸術学部研究所教授として、出版文化論、ジャーナリズム実習、また「文芸研究」の各学年のゼミを受け持ち、この春、定年退職された。
電話で村上さんは、コロナ禍のなかで行なった一年間の「オンライン授業」の記録をまとめており、本にできないか、と言った。確かに、自身がパソコンでできることと言えば、原稿の作成と、メールの送受信くらいのものだけれども、しかし、コロナ禍に便乗した、何もかものオンライン化、「リモート」推奨の風潮には、大いに疑問を抱いている、と。
私は村上さんの「オンライン授業」の記録を読んだ。2020年度は入学式も講師説明会も新入生ガイダンスも全て中止で、いきなり学部のオンライン授業を5月11日(月)から始めることに決まったと、そのひと月ほど前になって、学科助手がメールで連絡してきたという。
オンライン授業の方法は三択で、「講義資料・課題提示による授業」「収録内容をオンデマンド配信する授業」「リアルタイム配信による授業」から選べというものだった。村上さんは、音声や動画を用いたリモート授業など、パソコン操作が複雑になるものを避け、迷うことなく「講義資料・課題提示による授業」を選択した。
本書で村上さんは記している。
〈各クラスの教師用ページを開くと(受講生の画面がどのようになっているのか私は全く知らないが)、様々な装置が用意されていて、車の運転席どころではない、何処をどう作動させればいいのか皆目、見当もつかない。
オンライン授業を行なうための講習など一度も受けたことはなく、学科助手に聞くと「余計なことは考えないで、ただ手順どおりに進めば出来ます」とのこと。文字だけで授業を実施できる最低限のことだけを教えて貰ってのスタート、見切り発車。とにかく授業内容と課題をどのようにしてクラスルームに送信するか、その手順だけを覚えた。〉
そう、村上さんはZOOMやMeetup、YouTubeなどの、動画を駆使したオンライン授業は行なわなかった。と言うか、行なえなかったのだが、「授業が娯楽番組化する」と、「拒否」の姿勢を貫いたその言い分にも一理あると、私には思えた。
週五科目、授業開始時間前に毎回、村上さんは講義内容を投稿した。毎週、連載コラムと連載エッセイ五本を書きまくっている流行作家と同じくらいの仕事量で、実はリアルタイムのリモート授業のほうが簡単なのではないかと思いつつ、パソコン操作が苦手なために、けっきょく文字だけの「オンライン授業」を続けたという。
この村上さんの記録について、社内で議論し、一冊の本として残すことになった。原稿のやりとりが始まったのは2021年3月中旬だ。
村上さんが、パソコン操作が不得手なことは、以前から知っていた。また、視力がよくないことも、以前から知っていた。しかし、パソコン操作はともかく、視力の悪さが相当なものになっていたことを、私は全く知らなかった。
村上さんの視力は眼鏡をかけても0.1に届かず、しかも自身に合う眼鏡はこの世には存在せず、障害者手帳も持っている。パソコンの画面を20分も眺めていると、文字が滲んでくるという。また、ゲラを読むのも「読書拡大器」を駆使せねばならず、拡大率が高すぎるので、ページ全体を把握するためには、何度も何度も、端から端まで動かさなければ、校正の判断もできなかった。なので通常よりもやりとりの手間が増え、編集作業は困難を極めた。
「本日は都合により、ここまで。パソコンの不具合、発生」と、停滞することも多かったが、どうにか一年間、村上さんは村上さんなりの「オンライン授業」を完遂した。パソコンだけが頼りの講義で、日々その故障に怯えながらも、文字だけの「オンライン授業」は無事終了したのである。
コロナ禍で前期、対面授業がなくなり、四国の実家へ帰った教え子がいた。後期になって少しずつ対面授業が再開すると、彼女は飛行機や高速バスを使い、隔週で通ってきた。中国の蘇州からの留学生は、ついに入国できないまま卒業した。また、家庭の事情もあって休学した学生もいれば、音信不通になった学生もいた。
では、そんななかで行われた村上さんの「オンライン授業」に対する、学生たちの反応は、どういうものだったのか。本書より抜き出してみよう。
「オンライン授業に相応しく、もっと動画、画像、音声を使って、できるだけわかりやすく、工夫して欲しい」
「画像や動画、音声を使わないので物足りなかった」
「画像があったら、もっとわかりやすかったかもしれません」
「先生の声を聞いてみたかった」
大半の受講生が、そんな注文や感想を書いていた。しかし、なかには、
「こんな授業が一つくらいあってもいい」
「私は先生の授業のやり方のほうが合っています」
との意見もあった。
本書を読めば、団塊の世代の大学教授、村上玄一さんが、コロナ禍で自問した「大学の意義」が、見えてくる。たとえ少数でも、村上さんの「授業のやり方」に共感した学生の声を拾えたことが、私にはとても意義深いものとなった。
(幻戯書房編集部・田口博)