「中庸民主主義」に向かって ―小倉紀蔵さん(京都大学大学院教授)寄稿
記事:筑摩書房
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この原稿を書いている時点(二〇二二年二月末)では、まだ韓国大統領選挙の結果は出ていない。三月九日になれば、結果が出る。与党の候補が大統領になっても、野党の候補がなっても、その後の韓国政治の「分断」状況は変わらないだろうと予測されている。つまり、保守と進歩のあいだの亀裂はますます増大し、国民はさらに深刻に二分化されるだろう。ほんとうに収拾がつかなくなる恐れがある。ウクライナ情勢も、韓国にあっては、中国や日本に対する姿勢をめぐって国内の対立を増幅させるふいごの役割を果たしている。
視野をひろげて見るならば、そもそも朝鮮半島自体が南北に完全に分断されているわけだが、構造として、二分された南側の内部がまた分断されており、そのうちひとつの勢力は北側と親和力があるが、他の勢力は北側と対立している。このような入れ子構造になっているのが、朝鮮半島である。
この朝鮮半島に生きるという実践の困難さは、わたしたち日本人の日常的な皮膚感覚からはよく理解できないほどである。
その韓国の第一級の政治学者として著名なだけでなく、歴代大統領の諮問役および大使として現実の外交政策に深くかかわってきたのが、崔相龍(チェサンヨン)・高麗大学名誉教授である。彼は二〇〇〇年から二年間、駐日韓国大使として活躍したので、記憶している日本人も多いと思う。
「中庸民主主義(Meanocracy/ミーノクラシー)」とは、その崔相龍教授が編み出した政治哲学だ。東洋(孔子、孟子、『中庸』)と西洋(プラトン、アリストテレス)においてほぼ同時期に出現した「中庸」という概念を詳細かつ大胆に分析し、中国古典のことばである「時中(じちゅう)」をもっとも重要な概念として中心に置く。もちろん「中庸」こそ最高の概念なのだが、哲学の理論の世界ならいざしらず、現実政治の世界においては形而上学的な最高価値が実現されるわけではない。「時中」とは、現実的かつ複雑な状況、条件、環境のなかで的を射るように中庸の点を探していくことである。それを東西の政治哲学者たちは、秤で慎重に均衡点を探すことにたとえた。
左右のポピュリズムと極端主義、原理主義が猖獗(しょうけつ)をきわめている現在、わたしたちは民主主義の可能性を安易に放棄したり諦念に陥ったりするのではなく、あくまでも「幸福な生」を実現させる政治の原点に立ち戻る必要がある。その政治こそ「中庸政治」であり、「中庸民主主義」なのだ、と崔相龍教授は主張するのである。分断と二極化の極限といってよい韓国の現実から、このような哲学が生み出されたことの深い意義を、わたしたちは受け取るべきであろう。
そもそも崔相龍教授が自らの政治哲学を「中庸民主主義」として鍛え上げたのは、単に机上の議論から出てきているのではなく、自らの実存そのものの力によってである。崔相龍教授は慶州崔氏という名門の出であるが、この一門からは東学(朝鮮王朝末期の新宗教)の創始者である崔済愚や、衛正斥邪(えいせいせきじゃ)運動の巨頭である崔益鉉が出ている。東学は十九世紀末に日本に抵抗した甲午農民戦争において主体となったし、衛正斥邪は明治期に日本に抵抗した儒教的攘夷運動である。さらに崔相龍教授の直接の先祖は、豊臣秀吉の侵略軍や清軍とたたかって戦死した崔震立である。このように崔相龍教授の家門は、日本への抵抗という意味で韓国の最前線の位置に立っている。
その崔相龍教授がソウル大学卒業後の留学先に選んだのは、なんと日本の東京大学法学部であった。そこで坂本義和の指導を受けて博士号を取得した。崔相龍教授は、カント、ロールズ、坂本義和からもっとも多くの学問的影響を受けたと自ら語っている。彼の研究対象は、民族主義から平和へ、平和から中庸へと移行してきた。その過程で、日本というプロブレマティークはつねに巨大であったにちがいない。自分の身が引き裂かれるような二律背反の実存のなかで思索と体験を深めたからこそ、「中庸民主主義」ということばのなかに、両極端を包越する最良の思考を込めることができたのである。