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単独性/加害者性/当事者性に届く世界論=文学の力へ ウクライナ情勢を受けて、文学の力を改めて問う

記事:幻戯書房

『ポエジーへの応答』の装幀では、期せずしてウクライナカラーを使用していた。
『ポエジーへの応答』の装幀では、期せずしてウクライナカラーを使用していた。

はじめに


『ポエジーへの応答』と題する本を刊行しました。大半、二〇二〇年以降に公表された論攷、書評、対談から編まれた一冊です。文芸評論です。「二分法」的認識の批判とパンデミック状況についての論攷、詩人やフランス文学者とのトーク、主に詩にかかわる批評と書評を収めます。従って、「詩論」という、さらにマイナーなジャンルに属します。

 ですが、萩原朔太郎や中原中也を論じるわけでも、詩の鑑賞法を啓蒙するのでも、詩作のハウツーを語るわけでもありません。そのような詩論は在りうるし、それはそれで大事なことですが、本書はそうではありません。

 では、『ポエジーへの応答』は、どういう本なのでしょうか。

 所収の対談でフランス文学者の宇野邦一さんの言い方に準じて、本書は「世界論」である、と定義してみたいのです。つまり、詩について語ることが、世界=社会、経済、表象文化への思考を深めるという批評態度です。

 本書の覚書=あとがきで帯文にも抜粋された箇所に次のように書きました。

「詩との相互性が持続している。詩論というのは、詩をまっとうに論じることではなく、世界が詩であるという確信へと錐揉むテオリアだ。ならば、ロシアのウクライナ侵攻に同伴する権勢の神話にポエジーの喩法と寓意を対置して、何を動かせるのか。何を中断できるのか。凝視し、記録し、無血な力の到来へと言葉を呼び込む他はない。」

 覚書を書く直前、2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が惹起しました。背景も去就もほとんど不明な(今も歴史的経緯や見通しをめぐるすべての言説は何らかの任意性を帯びています)状況でポエジーに要請される態勢だけを記したのです。

 この場で、ウクライナ/ロシア情勢について著者の見方を述べることによって、本書の批評態度のご紹介に代えることにします。

地政学的、歴史的、文学的意味―ウクライナはヨーロッパ岬の根元

 侵攻の当初、報道は、大国による隣国への武力攻撃という理不尽な事態への憤りとプーチン大統領への非難一色でした。プーチン個人のKGB時代の経歴や専制体質、利権実態、ひいては、身心の瑕疵問題が喧伝されました。

 侵攻から3か月近く経過した現在、ミサイルや空爆によって破壊された街区、殺戮・凌辱・略奪に苦しむウクライナの人々の姿には、依然として、胸が引き裂かれます。一刻も早い停戦が切望されること、論を俟ちません。時間の経過に伴い、ロシアの核使用の脅威の一方、ゼレンスキー大統領の発言、ロシアへの経済制裁とウクライナへの支援をめぐる大陸ヨーロッパ、英米、および日本の挙動から、この戦争が、プーチンの衝動的暴挙とは違い、ウクライナをめぐる地政とヨーロッパ史、あるいは、世界史に根を持つことが次第に見えてきました。

 どういうことか。第一次世界大戦直後の1919年、ポール・ヴァレリーは『精神の危機』で、ヨーロッパは古い大陸のあるいはアジアの西の突起物、、、でありながら、精神espritの唯一の在り処であり、精神の勝利のためにヨーロッパを守護せねばならないと述べました。直後の1923年、ハイデガーは、ヨーロッパがロシアとアメリカに挟まれ万力、、の中にある状況の「不安」から「現存在、有限性」を導きました。つまり、ヨーロッパの自己同一性は、少なくとも大凡百年前からずっと揺らいできたのです。

ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』(岩波文庫)
ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』(岩波文庫)

ハイデガーのヨーロッパの状況の考察については、マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』(川原栄峰訳、平凡社ライブラリー)を参照。
ハイデガーのヨーロッパの状況の考察については、マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』(川原栄峰訳、平凡社ライブラリー)を参照。

 ロシア革命、第二次世界大戦後の冷戦構造を背景に米国主導の軍事同盟NATOへの加盟、1980年代のEU形成、1991年のソ連崩壊を通じてヨーロッパの揺らぎは継続します。

 そして、ウクライナは、揺らぐ岬の根元、、、万力の継ぎ目、、、に位置しているのです。

 今度の戦争は、ロシアによる侵攻で顕現しましたが、ヨーロッパのそもそもの「不安」がNATOの拡大によりロシアの地勢認識の「不安」を累乗し、喫水線が決壊、、したとも考えられます。侵攻したのはロシアである。だが、背後の歴史の蓄積を射程に収めると、ロシアの行動はロシアだけに因むものではない。むしろ、ロシアの侵攻という事態の偶有性、、、が現れるはずです。精神分析のタームにある「事後性」に倣うなら、歴史過程で抑圧されてきた「不安」が、NATO拡大や米国の牽制がトリガーとなって症状、、として回帰したのです。

「偶有性」については、カンタン・メイヤス―『有限性の後で』(千葉雅也他訳、人文書院)を参照。
「偶有性」については、カンタン・メイヤス―『有限性の後で』(千葉雅也他訳、人文書院)を参照。

 その意味で、この戦争の当事者、、、は、ウクライナとロシアだけではありません。グローバル社会における諸国の繋がりを合点しても足りない。百年以上のスパンでみた世界史の出来事の多層的なもつれ、、、をゆっくり解かねばならないのです。

日本の当事者性―「ならず者国家」の反復

 日本もまた当事者性を免れえません。ポイントは二つあります。ひとつは、日本が、20世紀初頭に清国に続いてロシアを破って世界史の前面に現れ、その後、アジアを侵略したときには、今のロシアと同様、侵略地域の「解放」という物語を捏造した「元祖ならず者国家」であること。もうひとつは、敗戦後、マッカーサーの術策、天皇制温存のアマルガムを克服しないまま、米国に屈服し続けていることです。

 ウクライナ/ロシア情勢について、日本の首相は、「西側の一員」として、ロシアへの経済制裁に加わり、物資供与などでウクライナを支援すると述べています。しかし、「西側」とは何でしょうか。NATOでも、EUでもありません。「西側」とは、「解放」や「自由」を騙り、、ながらベトナムやイラクに侵略した最強の「ならず者国家」米国のこと以外ではありません。

 さほど遠くない過去の「ならず者国家」たちが手を結び、現在の「ならず者国家」に敵対するという構図が反復、、されているのです。

「ならず者国家」の反復における文学の関与性

 このアポリアにおける文学の関与性、、、は、「凝視し、記録し、無血な力の到来へと言葉を呼び込む他はない」ということだけでいいのか。

 ここで、シベリアのラーゲリから帰還した詩人石原吉郎が「ペシミストの勇気について」のなかで記した次の一節に注目したいのです。

<人間>はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。

私が無限に関心をもつのは、加害と被害の流動のなかで、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立去って行くその<うしろ姿>である。問題はつねに、一人の人間の単独な姿にかかっている。

 今回の戦争で、殆どの言説・情報は「被害者」=ウクライナの側に立っています。しかし、それによって正義や善悪が絶対化されるなら、言説・情報の主体への歴史認識の再帰性が損なわれる。本質的な意味での当事者性が見失われる。

「ペシミストの勇気について」収録の『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫)
「ペシミストの勇気について」収録の『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫)

 石原吉郎の言う加害者性、、、、に立つことによってこそ、ロシアが「加害者」として現前する事態の偶有性、、、(起こってしまった現実と、起こらなかった可能世界の等価性)とともに、世界史のなかに在る誰もが無傷ではない、、、、、、ことがあらわになります。その当事者性=責任主体、、、、によってのみ、歴史の経験と責任性を呼び込み、現在の傷痕を未来へとキャリーできるのではないでしょうか。

終わりに 他者が拡がることで文学は成立する

 先に、「ならず者国家」と言いましたが、「一人の人間」は「単独な姿」においてのみ「国家」に対抗しえます。それを支援するのが文学であり、文学の力なのです。

 石原吉郎の言葉は、孤立して存在するだけではなく、その言葉が抱える「他者」の拡がりによって文学が成立します。

 本書は、そういう文学の力、、、、を信じるための符牒以外ではありません。

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