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ヒトラーとスターリンのはざまで ──そして21世紀のブラッドランド(流血地帯)

記事:筑摩書房

『ブラッドランド──ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』上・下巻(ティモシー・スナイダー 著 布施由紀子 翻訳、筑摩書房)
『ブラッドランド──ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』上・下巻(ティモシー・スナイダー 著 布施由紀子 翻訳、筑摩書房)

ドイツとソ連の大量殺人政策が重複

 20世紀の半ば、人類史上最大の集団暴力が、ポーランドからウクライナ、ベラルーシ、バルト三国、ロシア西部にまたがる広大な地域を襲った。スターリンとヒトラーが同時に政権を握っていた1933年から45年までの12年間、この地で独ソ両国の大量殺人政策が重複して進められたのだ。スターリンとヒトラーは自分の思い描く国造りのため、邪魔者を排除しようとして、この地域に住むおびただしい数の民間人を殺害した。

 東欧史を専門とするイェール大学のティモシー・スナイダー教授はこの事実に着目し、この地域を“流血地帯(ブラッドランド)”と名付けて調査に乗り出した。数年がかりで東欧諸国の公文書館をまわって膨大な資料にあたり、国境で分断されてきた“地域”としての歴史を掘り起こしたのだ。そして、独ソの政策によってこの地で殺害された民間人、戦争捕虜の総数が1400万人以上にのぼることを突きとめた。

ワシントンDC、米国 - 2014年3月6日:ホワイトハウスに集まるウクライナの人々
ワシントンDC、米国 - 2014年3月6日:ホワイトハウスに集まるウクライナの人々

人はこうも残忍になれるのか

 スターリンと言えば大テロル、ヒトラーと言えばアウシュヴィッツを連想するが、これらは単なる象徴であり、彼らが犯した大罪のほんの一部にすぎない。スナイダー教授は本書『ブラッドランド』のなかで、はるかに規模の大きな残虐行為のひとつひとつを詳述し、凄惨きわまる全体像を描き出した。

『ブラッドランド──ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』(筑摩書房)上巻書影
『ブラッドランド──ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』(筑摩書房)上巻書影

 率直に言って、読むのはつらい。人はこうも残忍に、利己的になりうるのか。こんな理不尽な生があってよいものか。ここで数万、あそこで数十万と、信じがたい犠牲者数が次々に示されて息苦しくなるが、加害の歴史を持つ国に生まれた者としては、目をそむけるわけにいかない。真実を追い求める著者の強い信念が、直視せよと迫ってくるのだ。そこには静かな怒りも感じられる。過去との向き合い方を語る最終章は圧巻だ。

『ブラッドランド──ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』(筑摩書房)下巻書影
『ブラッドランド──ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』(筑摩書房)下巻書影

説明と記録に徹し、公正に、しかも思いやりをもって伝える大著

 本書が2010年にアメリカで刊行されると、新たな観点からヨーロッパ史を語った試みとしてたちまち注目を集め、各紙誌がこぞって書評欄で取り上げた。なかでもエコノミスト誌は、「みごとなまでに説明と記録に徹し、公正に、しかも思いやりをもって誰に何が起きたのかを伝えている」と高く評価した。本書は30カ国で翻訳出版され、すぐれたノンフィクション作品に贈られるラルフ・ワルド・エマーソン賞、ヨーロッパ全土の──とりわけ中欧・東欧との──和解に貢献した書籍に授与されるヨーロッパ理解ライプツィヒ図書賞、ハンナ・アーレント政治思想賞など、権威ある12の賞を受賞した。

 ティモシー・スナイダー教授は1969年生まれ。イギリスのオックスフォード大学で博士号を取得し、長年、ヨーロッパ諸国で研究活動に従事した経歴を持つ。語学に堪能で、ヨーロッパの言語のうち5カ国語を話し、10カ国語を読むことができるそうだ。本業のほか、エッセーや評論の執筆に、講演にと忙しい日々を送っているようだが、ここ一年ほどは、ウクライナ問題について発言を求められる機会が多いらしい。

ロシアがみずから孤立していることを憂慮

 今年(2015年)6月には自由欧州放送のインタビューでロシアとウクライナの将来に言及し、「わたしはロシアがみずから選んで孤立していることを憂慮しています」と語った。「自分たちはつねに──千年にもわたり──世界中の敵対行動の標的になってきた、というような歴史認識を持っていたら、他国と協力関係を築くのはむずかしいでしょう……ロシアは逃げ場がなくなるような状況を自分で作り出している。長期的に見れば、ウクライナよりもロシアのほうが心配です」

 2014年3月のロシアによるクリミア併合以来、ウクライナ東部では親ロシア派武装勢力と政府軍との戦闘が続き、子供をふくむ多くの民間人が犠牲になっている。ポーランドもバルト三国も警戒を強めていると聞く。これだけの歴史を背負った人々の胸中には、わたしたち日本人にはうかがい知れない危機感と覚悟があるのだろう。穏やかな日々の訪れを願わずにはいられない。(2015年11月1日)

付記 ―2022年4月21日―

ポーランド国境に向かう人たち=2022年2月26日午前、ウクライナ西部・シェヒニ近郊、遠藤啓生撮影(朝日新聞社)
ポーランド国境に向かう人たち=2022年2月26日午前、ウクライナ西部・シェヒニ近郊、遠藤啓生撮影(朝日新聞社)

 平和への願いもむなしく、2022年2月24日、ロシアはついにウクライナ侵攻に踏み切った。プーチン大統領がこの決断にいたった理由は、ウクライナ東部に暮らすロシア系住民を「ジェノサイド」から守り、ウクライナの「非ナチ化」を実現するためだという。しかし「ジェノサイド」に相当する犯罪がおこなわれた証拠は見つかっていないし、現在のウクライナが「ネオナチ」に支配されている事実もない。ロシア政権がこれらの用語を本来の意味ではなく、独自の定義で使用していることは明らかだが、その根拠がわからない。かつてソ連が第二次世界大戦でナチスドイツに勝利した、だからロシアは反ナチだ、そのロシアに敵対する勢力は反・反ナチだから、めぐりめぐって「ネオナチ」だとでもいうのだろうか。

「ロシアのジェノサイド・ハンドブック」

 ブチャなどキーウ近郊の都市でロシア軍による民間人大量虐殺の証拠が次々と発見された直後の4月3日、ロシア国営通信社(プロパガンダ機関)“RIAノーボスチ”が「われわれはウクライナをどうすべきか」と題する記事を掲載した。スナイダー教授はこれを「ロシアのジェノサイド・ハンドブック」と呼び、4月8日付の自身のブログ“Thinking about...”で取り上げた(https://snyder.substack.com/p/russias-genocide-handbook?s=r)。

 教授の解説によると、この文書では「自分はウクライナ人だと認識している人間はすべて“ナチ”」ということになるそうだ。ウクライナのボランティア・チームによる英訳文がWeb公開されているので、わたしも読んでみたが、用語の定義はなく、ただ執拗に“ナチ”という語が連呼されていて異様な感じがした。この文書の筆者(ティモフェイ・セルゲイツェフ:政治工作員として活動するジャーナリスト)は、ウクライナ軍が「戦争に関わる法や慣習を遵守」せず、「民間人への暴力」「ロシア人住民に対するジェノサイド」に手を染めたと糾弾し、そのような「戦争犯罪人」「ナチの活動家」は見せしめとして処罰しなければならないと主張する。そのための具体的な方策として、ウクライナのエリート層の排除、民間人の強制移送と再教育、(ロシアが破壊した)インフラ再建のための強制労働などが計画されるだろうと書いている。実際、子供をふくむ民間人50万人がすでにロシア国内の僻地に強制移送されたという情報もある。スナイダー教授はロシアの公式見解における「非ナチ化」とは、とどのつまりウクライナという国家と国民を破壊することにほかならないと説明している。文書のなかでは「非ウクライナ化」という言葉さえ使われているのだ。

攻撃で破壊された集合住宅から家電を持ち出す人たち=2022年4月20日、ウクライナ・ホストメリ、竹花徹朗撮影(朝日新聞社)
攻撃で破壊された集合住宅から家電を持ち出す人たち=2022年4月20日、ウクライナ・ホストメリ、竹花徹朗撮影(朝日新聞社)

簡単に武器を置くわけにはいかない

 侵攻がはじまってまもないころ、テレビのニュース映像で妻子を国外に避難させてみずからは戦いに身を投じていく若い夫、幼いわが子に別れを告げ、迷彩服姿で戦場へと旅立つ母親の姿を見た人も多いだろう。なぜ彼らはあれほどまでの覚悟をもって戦うのか。あるいは戦えるのか。あの時点で彼らに降伏という選択肢がなかったことは、『ブラッドランド』を読んだ人なら理屈抜きで──わかるとまでは言えなくても──感じとれると思う。わたしは上記文書の内容を評価・分析する立場にはないし、そもそもそんな能力もないが、ウクライナの人々の多くがこれを読んだとすれば、やはりいまも彼らはそう簡単に武器を置くわけにはいかないのだろうと想像する。

 ウクライナは、多くの国々に支えられながら、もう2カ月もロシア軍と戦っている。そして周知のとおり、隣国のポーランド、モルドバ、ルーマニア、それにバルト三国、スロバキア、チェコが連帯を表明し、難民の受け入れや武器の供与など、できるかぎりの援助を続けている。ロシアと同盟関係にあるベラルーシでも、反体制派を中心にウクライナを支援する動きが見られ、志願兵としてロシアとの戦闘に参加する人々もいると聞く。言うまでもなく、いずれもかつてナチズム、スターリニズムというふたつの全体主義の弾圧を受けて“ブラッドランド”として塗炭の苦しみを味わった中欧の国々である。たがいに傷つけあった過去もないではないが、いまは一丸となってこの危機に立ち向かっている。

攻撃で破壊された集合住宅前を歩く女性=2022年4月20日、ウクライナ・ホストメリ、竹花徹朗撮影(朝日新聞社)
攻撃で破壊された集合住宅前を歩く女性=2022年4月20日、ウクライナ・ホストメリ、竹花徹朗撮影(朝日新聞社)

ウクライナがとるべき道を論じるのは無頓着な主権の否定

 スナイダー教授は中欧史専門の歴史学者の立場から、先述のブログやSNS、メディアのインタビュー、各紙誌への寄稿などを通じて積極的に意見の発信を続けている。ロシアの侵攻後はいちはやくウクライナへの寄付を呼びかけ、4月の初めには、米国内でウクライナのとるべき道を論じる記事が出まわっている状況を見かねて「アメリカ人同士で、ウクライナはああすべきだこうすべきだと見解を述べあうのは、無頓着にウクライナの主権を否定する行為だ」と、ツイッターで苦言を呈した。そして「ウクライナで戦っているのはわれわれではない。だからどのような条件でいつ停戦するかを決めるのはわれわれではない」「この戦争におけるウクライナの最大の功績は、世界の前で、ロシアに対してさえ、その存在と主権を確たるものとして示したことだ」と書いた。

21世紀に出現してしまったブラッドランド

 2022年3月15日にニューヨークタイムズがWeb公開したジャーナリストのエズラ・クラインによる教授へのインタビューでは、プーチン氏がウクライナを兄弟国と見なしていることについて「隣人を兄弟と主張する者はアイデンティティの危機に瀕している」と述べ、ウクライナの人々は過去の「物語」よりも、未来に向けた自分たちの「行動」のほうをより重視しているようだと語った。いまウクライナで戦っているのは兵士だけではない。誰もがなんらかの行動をとって支え合っている。それは国内の住民にかぎらず、世界各地に散らばって暮らすウクライナ人にも言えることだという。この団結(unity)こそが彼らのナショナル・アイデンティティの根幹だとスナイダー教授はみている。つまり、ウクライナの最大の財産は「人」だということなのだろう。彼らの未来を支えるために、各国が「戦後」も視野におさめ、何ができるかを考えなくてはならない。スナイダー教授はEU諸国の役割に期待しているが、21世紀に出現してしまったこの新たな“ブラッドランド”の傷を修復するのは並大抵のことではない。わたしたち日本人もまた、物心両面で痛みを分かち合う覚悟をしなければならないのだと思う。(2022年4月21日)

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