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「作者の気持ち」を忖度しすぎてしまう“病気”?――あらゆる創作物に作り手の影を追ってしまう「ベートーヴェン症候群」とは

記事:春秋社

国語のテストで「作者の気持ち」を答える必要はどうしてあるのか…(写真はイメージ)
国語のテストで「作者の気持ち」を答える必要はどうしてあるのか…(写真はイメージ)

 国語のテストが話題になると、よく槍玉に挙げられる「作者の気持ちを答えなさい」。詩や随筆では、書き手の心情や、あるいは意図に寄り添い、理解することが求められる。何が書かれているか、ではなく、書いている時の作者の心的状態を読み取り、共感することが、作品鑑賞のあるべき姿(のひとつ)として、推奨され、教育される。

 そこには作者の嘘偽りない本心が吐露されているという「お約束」が必要になる。レトリックを駆使して読み手を出し抜こう、技巧を凝らしてあっと言わせようというような野心は、建前上なかったことにされている(考慮の対象になる場合でも、いったん棚上げにされる)。

 考えてみれば、文学や芸術のみならず、工芸品や農産物、料理やお菓子にも、その論理は浸透している。「職人」「生産者」「シェフ」が「心をこめて」作ること、それが作られたモノの品質や価値を担保する。また、巧拙の次元とは別に、「手づくり」ということばの響きにくすぐられてしまうのも、似通った心性によるものかもしれない。

 音楽ももちろん例外ではない。ことクラシック音楽の、それも器楽における「作り手」の存在は、言葉や視覚的イメージをともなわない抽象性ゆえに、病的なまでに肥大化して聴かれているといっていい。この「音楽のうちに作曲家を聴き取ろうとする傾向」を、音楽学者マーク・エヴァン・ボンズは「ベートーヴェン症候群」と名付けた。

音楽に作者の人生を聴きとろうとする「ベートーヴェン症候群」

 ベートーヴェンの生誕250年にあたる2020年に刊行され、このほど翻訳も出たボンズの『ベートーヴェン症候群──音楽を自伝として聴く』(堀朋平、西田紘子訳、春秋社、2022年)から、かいつまんで紹介しよう。

 そもそもなぜベートーヴェンか。それはこうした傾向が、ベートーヴェンの「難解」な音楽をいかにして「解釈」するかという企てを通じて、深遠や崇高なかれの音楽の淵源を、難聴という人生の苦難と重ね合わせて聴く態度が醸成されていったからだ。

 ベートーヴェンの生前、あるいは18世紀のあいだは、音楽は聴き手になんらかの感情を喚び起こす手段とされ、作者にはそれを修辞学の枠組みを使って客観的構築物として構成(コンポジション)することが求められていた。ところが世紀が替わると、カントの主観性の美学、そしてロマン主義文学と歩調を合わせるかたちで、19世紀の前半に音楽の聴き方に革命が起きたのである。

 それと同時に、作品には作者の嘘偽りない本心が吐露されている、あるいはそうあるべきだという「お約束」、つまり作り手も受け手も作品に対して「誠実」であるべしという態度も形づくられた。すぐれた芸術作品は、天才の内奥からあふれでる想像力の賜物である――こうした枠組みは、理想的な作者の姿を作品から逆成するような解釈すら誘うようになった。

苦悩の天才ベートーヴェンを神格化するクリシェは肥大化し、ついには崇拝の対象にさえなった。(フーゴー・ヘッペナー『ベートーヴェン寺院のためのスケッチ』、1903年)
苦悩の天才ベートーヴェンを神格化するクリシェは肥大化し、ついには崇拝の対象にさえなった。(フーゴー・ヘッペナー『ベートーヴェン寺院のためのスケッチ』、1903年)

ロマン主義の原動力となった「自己」

 聴き手の論理は作り手の論理にも影響する。ベートーヴェン以降、ロマン派の作曲家たちはこぞって自己を作品のなかに埋め込むようになった。いちはやく実践したのがベルリオーズの『幻想交響曲』であろう。「ある芸術家の人生のエピソード」と題された本作品は、プログラムに記された出来事を、音楽を通して想起するよう聴き手に要請する。ここでは、その芸術家(作者であるベルリオーズを仄めかそうとしているのは明らかだ)の人生を追体験するように音楽を解釈する手だてが、作り手の側から示されるようになったのだ。

 ベルリオーズのように露骨ではないにせよ、シューマンの標題作品にも実人生とかかわるいくつもの仄めかしが見え隠れする。ショパン自身はそうした態度からは背を向けていたようにみえるが、聴き手はショパン作品の民俗的な音調や律動のうちに、祖国ポーランドを失いパリで失意のうちに逝った繊細な芸術家の姿を見出そうとした。

 芸術作品と作家の(強烈な)個性とを取り結び、作者の人生や内面にかこつけて解釈するために、親子・友人・恋愛関係、相貌、容姿、ナショナリティ、ジェンダー、信仰、嗜好、人生のあらゆる属性や出来事が動員された。こうした過剰な読み込みからは、ベートーヴェン以前の作曲家も免れられなかった。たとえばモーツァルト。後世の伝記作家たちは、かれの身にふりかかった悲痛なできごとを数少ない短調作品の作曲の契機に当てはめてみたり、絶筆となった『レクイエム』にかれがみずからの宿命を汲み取ろうとしていたと想像したり、ありもしなかった逸話を作り出すことさえ厭わなかった。

 20世紀になって、表現主義や象徴主義の美学が主観性一辺倒の枠組みに一石を投じることにはなった。しかしこの「ベートーヴェン症候群」はいまだに、われわれの芸術作品への向き合い方に、作り手の内心のほとばしりとして解釈するという態度として染みついている。

創作と受容/生産と消費の要石として

 このようにボンズは、現代の聴取や解釈のパラダイムがベートーヴェンという存在を要石としてどのように変遷していったのかを、あざやかに描き出してみせる。と同時に、そのときどきの作り手と受け手の論理を支える美学上のさまざまな概念(「ミメーシス」「修辞学」「解釈学」「天才性」「想像力」「ファンタジー」「フモール」etc.)も、同時代の文脈から丁寧に説き起こしてくれている。

 芸術作品だけでなく、あらゆる創作物に否応なく介在する「作者」という存在。モノを通じてその作り手の人生や嘘偽りのない本心を読み込もうとする心性を「ベートーヴェン症候群」と呼ぶのだとすれば、それは「作者の気持ちを答えなさい」という国語の設問はもとより「作り手のまごころがこもっています」という生産者ラベルにも、ひょっとしたらヴァレンタインの手づくりチョコレートにも、根付いているといえないだろうか。

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