〈追悼・鶴見俊輔〉頂点は見えない 四方田犬彦
記事:筑摩書房
記事:筑摩書房
わたしのことを先生と呼んではいけない。鶴見俊輔はそういった。彼は石川三四郎を先生だと呼んだことがあり、他にも師と仰ぐ人物を何人か持っていたが、自分には弟子というものはいない。人を弟子と認めたこともなければ、弟子を育てようという気持ちを抱いたこともないと、わたしに向かっていった。
大学というところは長くいると段々と頭が悪くなってくるから、適当なところで止めておいた方がいいね。鶴見俊輔はそうもいった。わたしは当時、大学で映画学の講座を創設した直後だったので、うまく答えることができず黙っていた。すると彼はもっとスゴイことをいった。
鬱病というのは年をとって初めてなると大変だから、若いうちに一度やっておくといいよ。一度やっておくと、避け方のコツというのがわかるからね。
1991年、山形国際ドキュメンタリー映画祭の、上映と上映の間の、20分ほどの休み時間のことである。
鶴見俊輔の生涯の主題は失敗の研究だった。
人はなぜ失敗をするか、ではない。失敗をした人間が何を学ぶか、その後にどのような方向に進んでいくかということに、彼はいつも関心を抱いていた。
彼は書いている(『鶴見俊輔全詩集』編集グループSURE、2014年)。
「錯誤をだきとることの/できるものは/なんとおおきいか」
この姿勢が鶴見を転向研究へ向かわせ、「ねずみ男の哲学」へと向かわせた。彼の身近には少なからぬ共産党員がいたが、日本共産党が主張する無謬性の神話が、彼を党から遠ざけた。アメリカ人はヴェトナムでの敗北によって何を学んだのだろうと、彼は問いかけた。アメリカ人の誰がそれに上手に答えられたのだろう。
わたしが鶴見俊輔に対して抱いている羨望。
他者に対する寛容さ。あるいは自己追及の執拗さ。
行動力。自分のなかにある過剰さが狂信へ向かおうとするときの自己抑制力。
党派的なるもの(たとえば「鶴見学校」といった言葉)の発生への警戒心。人を批判する者がたやすく人を抑圧する言説の担い手となってしまうことへの、直感的な身構え。
85歳にして同時代人、埴谷雄高について書物を刊行するほどの情熱。
ケネス・バークの読解の深さ。
吉本隆明はベ平連を批判し、死を解読すべき悲劇だと考えていた。鶴見俊輔はベ平連を組織し、生きることに悲劇の荘厳さを求めることを戒めた。二人は何年かに一度は対談をし、お互いの位置がブレていないかを確かめるとともに、自分の位置を測定した。彼らはお互いを、その差異を含めて理解していた。鶴見俊輔が最後まで理解できず、口ごもったのは、割腹自殺をした三島由紀夫だった。わたしにはこうした同時代人がもはやいない。
村上一郎の回想に少年時代の鶴見俊輔が一度だけ登場する。
1930年代の中ごろ、彼は「少年倶楽部」か「東京日日新聞」のような雑誌新聞で、当時の名士の子弟たちが将来に何になりたいかという問いに答えるという記事を読んだ。多くの子供が大将になりたいと答え、またそれが期待される回答でもあった。村上少年ももしその場に担ぎ出されていたら、そう答えただろうと考えていた。ところが子供たちのなかに一人、自分は「総理大臣になるか、乞食になる」と発言していた子供がいた。それが鶴見祐輔の息子の俊輔だった。「こいつは今の世と別の価値観をもっているというような恐ろしさに打たれた」と、後の村上一郎は書いている(『イエリンの歌』国文社、281頁)
鶴見俊輔には結論、つまり最後の言葉を口にすることを、つねに躊躇するところがあった。あらゆるものは途上の段階にあり、それについて語ることは、とりあえずの、いつでも訂正のきく言葉でなければならなかった。生と死についても、それが結論ではなく、中途の出来ごとにすぎないという態度をとり続けた。あらゆる人は死ぬから偉いのだと、彼は平然といってのける。生きている者は死んだ人のことを嘆いてはならない。死者については讃えることができるだけだ。わたしもそうだと思う。
失敗を克服する最上の道徳とは、それが最終の判断ではなく、どこまでも中途に生じた事件であると見なすことだ。彼は書いている。
「さらに遠く/頂点は/あるらしいけれど/その姿は/見えない」