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鶴見俊輔生誕100年 著作の刊行・再刊相次ぐ 混沌とした時代と向き合う手がかりに

記事:じんぶん堂企画室

鶴見俊輔=朝日新聞撮影
鶴見俊輔=朝日新聞撮影

膨大な仕事 やわらかな語りから 自伝『期待と回想』

 鶴見は、戦後若くして論壇に登場し、晩年まで長きにわたって活動を続けた。活字として残っているものだけでも、自ら執筆したもの、対談や座談、編集などその仕事は膨大だ。その中身も非常に幅広い。ベトナム反戦での座り込みや脱走兵の援助などの行動もある。

 その大きさ、幅広さに近づくならば、2月に再刊された『期待と回想』(ちくま文庫)は外せない名著。90年代に自らの仕事や人生を語りおろした自伝だ。「不良」だった少年時代、米国留学や従軍体験など哲学者として登場する以前のことから、転向研究や「思想の科学」、ベ平連といった活動、漫画評論や書評にいたるまで、気心の知れた3人の聞き手(北沢恒彦、小笠原信夫、塩沢由典)が、『鶴見俊輔集』(筑摩書房)の各巻を軸に話を聞いている。それぞれの仕事への理解が深まるのはもちろんだが、これから鶴見に親しむ読者にとっても様々な入り口を用意する本だ。

1970年、安保拒否百人委員会のメンバーとして国会議事堂の南通用門前に座り込みをし、機動隊に排除される鶴見俊輔=朝日新聞撮影
1970年、安保拒否百人委員会のメンバーとして国会議事堂の南通用門前に座り込みをし、機動隊に排除される鶴見俊輔=朝日新聞撮影

 タイトルは、過去を振り返るときの態度から。米国の文化人類学者ロバート・レッドフィールドからの影響として、こう語る。

「いつの時代でも未来は期待の中で見える。未来というものを、これからどうなるだろうかという不安に満ちた、いろんな情緒によって揺れ動く不確実なものとしてとらえるでしょ。ところが回想の次元になると、不確実な未来としてとらえていたときのことを忘れてしまう」

思想家をささえた源泉 『日本の地下水』

 コラムニストの上原隆さんが、色鉛筆で線を引きながら同人誌を読んでいる鶴見に遭遇した、と書いている。「その同人誌の文章、全部読むんですか」と尋ねると、「うん、これが私の源泉だからね」と答えて笑ったという。(「態度と挿話」「現代思想」2015年10月臨時増刊号 総特集=鶴見俊輔)

 6月に刊行された『日本の地下水』(編集グループSURE)は、各地のサークルがつくる小さな雑誌を中心に時評した連載をまとめたもの。鶴見が「源泉」から水をくみ出す様をかいま見ることができる。

 1950年代に、学校や職場、地域社会で、芸術や学問、趣味などでつながったサークル活動が盛んになり、多くの同人誌や会報が作られた。連載は、思想の科学研究会名義で1956年に「中央公論」誌上で始まり、1960年からは復刊された「思想の科学」に移った。筆者には移り変わりがあったが、鶴見はほぼ25年にわたって記事を書いた。

 今回の本は、「思想の科学」で掲載されたもののうち、鶴見が執筆したすべての記事を初めて1冊にまとめた。取り上げられている雑誌は、精神病院で働く人々による「精神科年報」、旧陸軍将校の「偕行」、親族が交流のためにつくった「いとこ会誌」など。鶴見はこうした雑誌を時代や社会の動きを踏まえて読み解く。

 編集にあたったのは、「思想の科学」編集委員も務めた作家の黒川創さんだ。「バラバラに雑誌を選んできて、それぞれに柔道の乱取りみたいに突っ込んで考える。マイノリティ、社会的な弱者に絞って取り上げるということではない。どの雑誌にも予断を交えずに接して、興味を覚えたものは、その面白さの理由を本気で掘り下げて考えている」

 例えば、子育て中の主婦たちが中心の読書会による小雑誌「草の芽」について。

「子供と一緒にあそびまなぶという家庭の行事が記録され、親同士のサークルで読まれると、そこには、しぜんに、自分たちの世代においては実現されなかったことを、次の世代の子供たち、、には実現してもらいたいという願いが共通のものとして生まれ、この共通の願いが、日本の国民の未来のイメージなのだ」

芯になった「分析的な仕事」 『不定形の思想』

1965年、桑原武夫と鶴見俊輔(右)=朝日新聞撮影
1965年、桑原武夫と鶴見俊輔(右)=朝日新聞撮影

 黒川さんが、『日本の地下水』と対になる1冊とするのが、この秋刊行予定の『不定形の思想』(河出文庫)。

 もともと、文芸春秋から1968年に出た同名の単行本から編み直すもの。1950~60年代に書かれたコミュニケーションや言語に関する論文などが文庫版に入る。

 黒川さんは、「落語を題材にしていたり、一見アカデミックに見えないように書いたりしているものもあるが、米国で学んだ記号論理学のタイプ分け、数量分析など先端的な学問が応用された分析的な仕事」と話す。

 鶴見は、収録された「言語の本質」(1961年)の頃までで、こうした「分析的な仕事」を終わりにして、伝記のように実例で示唆する「例示的な仕事」に重心を移した。「この人の場合はこうだった、という例示的な形でしか言えないことがある。それでも、こうした50~60年代の分析的な論文は、その後の鶴見さんの芯になっている」と黒川さんはみる。

 さらに、「私の本」と題された4つの文章は、鶴見の原点を知る意味でも重要だ。「戦争のくれた字引き」は海軍軍属として従軍中につけていたノートをもとに何度も書き直したもので、同僚による捕虜殺しが示唆されている。「もし自分が捕虜殺しを命じられていたらどうしたかという問いから、鶴見さんは生涯逃れられなかった」

丸山、吉本との差異で浮かぶ立ち位置 『日本思想の道しるべ』『思想の流儀と原則』

 中央公論新社からは、『思想の流儀と原則』『日本思想の道しるべ』が刊行された。編集を担当した中央公論新社の太田和徳さんにとっても、鶴見は「とても著作活動の幅が広く、よくわからない思想家」だったという。そこで注目したのが、同世代の思想家・吉本隆明、先輩格の政治学者・丸山真男という戦後日本を代表する知識人との対話だった。「鶴見の立ち位置を2人との差異によって浮かび上がらせようとした」のが、この2冊。

 企画のヒントになったのは、仏文学者・海老坂武さんのエッセイ「語る人 鶴見俊輔」(『KAWADE 道の手帖 鶴見俊輔』)だという。

 海老坂さんは、鶴見を対談の「現代最高の名手」としたうえで、「何か一つを挙げろと言われるなら、私は躊躇なく吉本隆明氏との対談「どこに思想の根拠をおくか」(「展望」1967年4月号)を挙げる」と書いている。そこには「戦後二十年の日本の思想史が凝縮されている、とすら言える」と評した。

 反戦運動のあり方、国家や思想のとらえ方などをめぐって、吉本は鶴見を批判し、鶴見も応戦し疑問を投げかける。「実際、これほど激しい対立が見られる対談はあまり読んだことはありませんし、妥協を一切しない真剣勝負の場であったと思います」と太田さん。「鶴見・吉本両氏がその対談に至るまでに、何を問題とし、何を争点としてきたのか、さらにその後直接対話で何を論じたのか、一冊の本として提示してみたのが『思想の流儀と原則』です」

 吉本との対論と、それぞれが「国家」や「転向」といったテーマについて論じた論考が並ぶ。最後の対談になった「未来への手がかり」は単行本初収録。互いへの信頼がにじむ味わい深い対話になっている。

 同じエッセイのなかで、海老坂さんは丸山真男との対談「普遍的原理の立場」(「思想の科学」1967年5月号)にも触れている。「思想の科学」の創立メンバーでもある丸山だが、その鶴見批判もまた厳しい。それは、「日常的なもの」と「日本的なもの」を置き換えるな、というものだった。太田さんは、「思想史家・丸山にとって、鶴見の「日本思想」研究は自身の考えとは相容れないものだったのではないか」とみる。

 その鶴見の日本思想研究をまとめたのが『日本思想の道しるべ』。「日本思想の可能性」など総論のほか、民芸運動を率いた柳宗悦やアナーキストの石川三四郎についての文章を収録。最後に丸山との対談を収める。

 本書収録の「日本の思想百年」でも示されるように、鶴見はアカデミズムの思想史から離れようとした。丸山の批判的な視線を踏まえて鶴見の日本思想研究を読むことで、新たな鶴見の姿が見えてきそうだ。

1968年、在米中にアメリカ軍に徴兵されベトナムに派遣されて「脱走」した清水徹雄さんの会見で。中央が鶴見俊輔、左端はベ平連の小田実代表=朝日新聞撮影
1968年、在米中にアメリカ軍に徴兵されベトナムに派遣されて「脱走」した清水徹雄さんの会見で。中央が鶴見俊輔、左端はベ平連の小田実代表=朝日新聞撮影

日常の核心にあるもの 『鶴見俊輔、詩を語る』

 鶴見について大づかみにまとめようとするとき、こぼれ落ちてしまいがちなものの一つが、詩との関わりだ。鶴見は若い頃から詩に親しみ、晩年まで自ら詩作を手がけた。

「長い年月にわたって人びとに大切にされる詩は、現実をしっかりとつかんでいる。私たちの日常生活の核心にある大切なものを、私たちにしらせるはたらきをするからだ」(『デューイ』)。

『鶴見俊輔、詩を語る』(聞き手=谷川俊太郎、正津勉、作品社)は7月末刊行予定。80歳にして初の詩集『もうろくの春』(編集グループSURE)を刊行した直後に、詩人の谷川俊太郎さん、正津勉さんと行った対談を収めた。3人で鶴見の詩を味わったり、古今東西の詩について語り合ったり。鶴見と、黒田三郎や谷川雁、ゲーリー・スナイダーといった詩人との交流、鶴見祐輔、谷川徹三というお互いの父親についてなど、話題は広がっていく。

本邦初訳の愛読書 『キャスリーンとフランク』

 生誕100年にあわせ、鶴見の愛読書も刊行された。

 英国の作家クリストファー・イシャウッドの『キャスリーンとフランク』(新潮社)だ。イシャウッドの母親が少女時代からつけていた日記と父親の手紙がもとになった本で、鶴見の妻で英文学者の横山貞子さんによる本邦初訳。鶴見が繰り返し読んでいるのを見ていた横山さんが興味を持った、とあとがきにある。

 あわせて読みたいのが、鶴見の「イシャウッド――小さな政治に光をあてたひと」(『思想をつむぐ人たち 鶴見俊輔コレクション1』、河出文庫)。

 英国の上層中産階級に生まれ、戦死した英雄的軍人の息子として見られることにすわりの悪さを感じていたこと。英雄の妻として生涯敬われた母にとってはイシャウッドが同性愛者であることをうけいれるのが難しかったこと。『キャスリーンとフランク』は、そんなイシャウッドが、長い時間を経て、若い頃の父や母の姿を発見し、彼らと向き合って生まれた著作だった。鶴見自身も、名門の出自や両親との距離の取り方に苦しんだ。だからこそ、執筆を通じて亡き両親との和解を果たしたイシャウッドにひかれたのだろう。

 そうした個人的な思い入れを差し引いても、鶴見の「例示的」な仕事としてイシャウッドからは学ぶことが多い。先ほどの文章の書き出しはこうだった。

「どの戦争も、平和を目的としてたたかわれた。『戦争をなくすための戦争』(第一次世界大戦の時の米国政府のかけごえ)、『東洋平和のための戦争』(中日戦争の時の日本の流行歌の言葉)は、その戦争がすぎた今となって見れば、あわれである。
 しかし、すぎた戦争についてはそう思うものの、今も私たちは平和のための戦争にふみこみかねない。今の日本政府の指導者の言うことをきいていると、そう思えるし、指導者でない私たちもまた、そういう指導者のかけごえと説明をうけいれかねない」

 ロシアがウクライナに侵攻し、日本でも防衛費の増強が叫ばれるようになったいま、思い当たる節がないだろうか。

 イシャウッドは同性愛者であることを隠さず、少数者への共感をもって、ナチスやベトナム戦争に反対し、死刑廃止のために努力した。「それらの政治運動は、世界の政治はこうあるべきだという体系から出ているのではなく、自分は毎日をこういうふうにすごしてゆきたいという彼個人の日常の感覚に支えられている」と鶴見は書いている。

一つひとつの状況の必要でバラして考えていく

 コロナ禍、そして、新たな戦争。再び国家の力がむき出しになり、私たちの日常は揺るがされている。鶴見の言葉は、いまこそ読まれるべきだと感じられる。

 黒川さんは、鶴見が「思想」を「信念と態度の複合」としてみたことを強調する。「自分がその状況に置かれたらどうするかという気構えの問題なんですよ。捕虜殺しを命じられたらどうするか。鶴見さんは、自分に向けたやいばとして状況を考え続けた。現在の状況に不安を覚える人にとっては、心当たりを持って読まれる書き手なんじゃないかな」

2007年、小田実追悼デモでの鶴見俊輔(手前中央)と黒川創さん(左端)=朝日新聞撮影
2007年、小田実追悼デモでの鶴見俊輔(手前中央)と黒川創さん(左端)=朝日新聞撮影

 鶴見は、一貫してマルクス主義とは距離を置き、自らの言説の体系化も避けた。そして、日常に立脚して国家を相対化しながら、「一つひとつの状況の必要でバラして考えていく」(『期待と回想』)ことを続けた。そこには、常にギリギリの思考と行動が伴う。今回紹介したものは仕事の一部に過ぎないが、戦後民主主義や戦後知識人というようなすわりの良いイメージには収まらない鶴見に何度も出会うはずだ。簡単に答えが出ない問題ばかりに取り囲まれたいまこそ、その仕事を「期待の次元」で捉え直したい。

 編集グループSUREの書籍は、ホームページ(https://www.groupsure.net)から購入できる。問い合わせは(075・761・2391)。

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