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「南進論」に導かれ、日本の海外進出の先遣隊として南洋に渡った人々は、 大戦に翻弄されながらいかに生きたのか――

記事:平凡社

シンガポールの日本人墓地入口(著者撮影)
シンガポールの日本人墓地入口(著者撮影)

今日も南洋に流れるまったりした空気

 東南アジアの国々の、雑然とした市場のなかを歩くのが好きである。第一、あの雑踏のなかにムンムンと漂う匂いがいい。南洋に来たことを実感させてくれるこの匂いは、日本では体験したことはないが、遠い昔、どこかで接したような、親近感さえ覚えるからである。

 路上に山と積まれたバナナ、パパイヤ、マンゴー、ドリアンのほかにも、名も知らない南洋の果物の山。先ほどまで両足を縛られながら、キョトンとした視線を周辺に送っていたニワトリが、露店の女主人の振るう牛刀のような頑丈な包丁の下で、瞬く間に原形を失っていく。隣の焼き鳥屋の香ばしい匂いも、人の汗の匂いに混じってあたりに漂っている。

 売り子の大きな掛け声や客とのやり取り、子どもの泣き声、自らの身に降りかかろうとする危険を察知したのか、籠のなかのアヒルがガアガアと騒ぎ出す。そこには生活の音と匂いがすべて凝縮されている。

 露店の背後には、豆や米などの穀物、めずらしい香料、衣類や装飾品を扱う大小の問屋に、大勢の人間たちが買い物や商取引に出入りしている。

 南洋の空の下には、飾り気のない、本音の姿をあらわにした彼らの伝統社会の生活空間が根付いている。

 では、この南洋に進出してきた日本人の先兵たちはこの地で何を望み、何をし、その結果はどうなったのか。

 まず用語であるが、現在、東南アジアと呼ばれている地域は、戦前は南洋といういい方をした。現在のいい方は、主として戦後になってからの連合軍の借りものである。したがって本書が日本近代史であつかう時代は、鎖国前から第二次世界大戦にいたるまでであるから、当時のまま「南洋」の呼び名を使うことにした。

 南洋への関与はいくつかの形で足跡を遺してきたが、戦前の日本でいわれた「南進論」は、概念において二分されていたとみることができる。女性も含めた経済活動の先鋒をつとめた日本人の南方進出と、日米開戦前夜に熱い視線を集めた、武力を背景にして現地の豊富な天然資源を獲りにゆく南進論である。

 後者の南進論については、「あとがき」に記してあるが、結果的にこの国策は、南洋の日本人町だけにとどまらず、現地の人にも悲劇をもたらすことになる。

 それとはまったく別に、ルソンのマニラや、タイのアユタヤ、ベトナムのホイアンにみられたように、鎖国以前から、交易基地としての日本人町が形成されていた事実もあった。なかでも朱印船の活動による南蛮貿易は、戦国大名たちや徳川幕府による積極的経済活動を担ってきたが、渡来品にむけた諸大名の熱い視線をうけて、藩の財政を潤してきた。

 だが鎖国が解けて明治の世が明けると、それまで各藩に分かれていた縦割りの組織が崩れ、曲がりなりにも新国家日本がスタートすると、民の姿勢も変わってきた。かけ替えのない人生を、南洋各地に、「夢」という、ときに実体感をともなわない玉虫色の未来に駆けだしていった人々が、次々と出現したのである。

 200年もの間、鎖国で閉塞していた日本には、外に向けたとてつもないエネルギーが溜まり、熱いマグマとなって流れでる現象が起きた。近代に向かう変革の胎動は、志ある人々を着実に突き動かしたのである。曰く、海外雄飛。彼らはいずれも、外向きの好奇心と夢をもった人間たちであった。

 そのなかに、明治新政府に希望をもてないまま禄を失い、刀をそろばんにもち替えた侍、豊富な南方の資源を商って一獲千金を夢みる商人、伝統の技を新天地で思い切り生かしてみようとする職人たちがいた。

 明治政府にとっても、彼らは資源保有と貿易拡大の先遣部隊であり、情報収集の協力者でもあった。

家族のために

 その一方で、貧しさから家族を救うために、異国に出ていく娘たちもいた。娘子軍または、カラユキさんといわれた娘たちである。彼女たちにとっては、南洋に出ていくというよりは、落ちていくといった方が、実態に合っている場合が少なくなかった。

 彼女たちは若い身空で春を売る女性のことだが、ある世界史の研究者によると、売春は人類最古の職業であるそうだ。職業とはいえないまでも、人類が出現してまもない狩猟採集時代、肉や果実などと引き換えに成立した経済行為ではあった。

 ちなみに、2番目に古いのはスパイだそうだ。高度なレベルではなかったはずだが、情報提供の見返りとして報酬が与えられたことによる。

 それはともかく、南洋に渡ったカラユキさんたちは、もとはといえば「幸せは南の島に宿る」と信じ、冒険心、一旗揚げたい野望に抗しきれなくなり、南に漕ぎ出した人々であることに変わりない。

 彼女らが故郷に送る金は、明治政府にとっても貴重な外貨であった。今日の国情や生活実態の違いはあるだろうが、日本をめざす「ジャパユキさん」があとを絶たない社会現象とは、ちょうど反対方向の流れである。

 月日流れて今日、椰子の木陰にひっそりと眠る彼女たちの墓石の何と多いことか。名前と出身地、享年が刻まれた墓石があれば、いいほうである。

 南洋で財をなした証しに、とてつもなく大きな自分の墓を造らせた人たちにはばかってか、離れたところに小さな目印の石が碁盤の目のように並んでいる無縁墓地があり、彼女たちはシンガポールやメダン、ジョホール・バル、マラッカはじめ、南洋のいたるところに眠っている。

 そこで気が付いたのは、男たちの出身地がまちまちなのに比べ、女性たちは長崎、熊本の人が多いことだった。長崎、熊本には港町があるだけでなく、南蛮渡来の切支丹を受け入れたように、南洋的精神風土があったということなのか。

 だが自分の名前さえ刻まれていない、ただこの地に魂が眠っている事実を、小さく訴えている日本娘たちが大勢いることに驚かざるを得ない。

 そんな人々が南十字星の下の椰子の木陰に刻んだ足跡の姿はまちまちでも、生きた証しの残影を求めて昔を偲び、対話することに、静かな感動を覚えるのは何ゆえか。そこには同胞たちが残していった喜びや悲しみ、言い尽くせない情念が刻印されているからに違いない。

 そこで戦前の南洋の日本人町の歴史探索は、シンガポールからはじまることになる。

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