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「鬼滅の刃」は宗教的? ――『魔法少女はなぜ変身するのか』の著者が語る現代の死・前篇

記事:春秋社

歌川国芳「地獄絵」(部分)
歌川国芳「地獄絵」(部分)

宗教学とメディアの避けては通れない関係

 私は仕事をしながら話題のアニメをBGMとして見る習慣がある。話題になっているアニメやマンガはどんなもんだろうかと、「進撃の巨人」「呪術廻戦」「約束のネバーランド」「ゴールデンカムイ」「キングダム」等々アニメとマンガで見ている。かといって「オタク」と呼ばれる範疇には入っていないと思っている。新しもの好きとながら族の特性によるものである。

 職業柄、ついつい「宗教的なもの」に目が行く。目が行くというか、職業病である。以前は街を歩いていてはっと目が行くと「○○不動産(不動尊)」に見えたり、「○○観光(観音)」だったりした。建築中のビルの赤い骨格が目に入って「鳥居」かと思ったこともしばしばである。視力が弱いという説明ではすまない。

 専門は宗教学・宗教社会学で、社会変動と宗教(文化)の関係を調査研究している。日本人の宗教性が弱くなっているのではないかという指摘は、欧米での世俗化論の高まりもあって、1970年代には研究者の間ではかなり認識されていたと思う。しかしながらその後は、欧米での宗教の復興を背景にして1980年代以降は宗教や「スピリチュアリズム」の勃興が指摘された。日本でもより広範囲な文化領域を想定した「スピリチュアリズム」がもてはやされた。欧米の状況には絶えず気を配るとしても、最新の研究動向に飛びつくのは今更のことではないし、どこかで最終的には「キリスト教文化圏と日本とは文化状況が異なる」として逃げられる安易さがある。

 ところで「スピリチュアリズム」は私的な宗教性を強調すると同時に、公共圏への広がりを指摘する。この点でも私には疑問が残った。従来の宗教者や宗教団体に支えられていない個人的な生きがいやメディアの中に存在するものを「スピリチュアル」と想定して、現在でも日本や日本人は宗教的であるとしても果たして意味あることなのだろうか。それよりは神社や寺院などの伝統的宗教団体、創価学会や立正佼成会などの新しい宗教団体の教勢や日本人の生活における宗教行動の推移をきちんと把握する方が重要であるように思われるのである。そして近年の社会変動と宗教を問題とするのであれば、情報化の問題は最重要課題のひとつで避けて通れない。

 私の情報化と宗教の研究歴は長い。初めて論文を書いたのは1986年のことで、すでにテレビ(『テレビと宗教』2008年、中公新書)、ラジオ、インターネットの調査はほぼ終了している。現在はDXと宗教の調査研究を行っている。こうした研究の中で、いつかアニメやマンガの持つ宗教性について研究をしなければと考えていた。ちょうど「異界」や「異世界」がブームになった時期で、アニメとマンガの宗教性に関するまとまった研究を決意した。研究はたいへんだった。還暦を過ぎていたこともあったが、膨大な量のアニメやマンガをつぶさに調べて行くには時間が必要だった。

「魔法は嫌われている?」

 アニメやマンガにはジャンルが設けられている。視聴者の便宜や大雑把に作品を分類するのに使われてる程度のものだが、その中に「魔法少女」「巫女」「異界」「転生」といった宗教学で扱うテーマが含まれている。本書はおおよそこれらのテーマに関する考察である。ただ作品の中に宗教性が見られますよとか、こんなに多くの作品が巫女を描いていますよというものではない。できるだけ著名な作品を取り上げて、魔法や巫女がどのように描かれているか先入観を捨てて地道に検証していく作業である。

 ずいぶんと面白いことにも気がついた。「魔法少女」では魔法による事態の解決よりも「日常」の維持や元の日常に戻ることが望まれているとか、異能者としての巫女は黒髪が多いとか、キリスト教は敵視されているとか・・・視聴していてほとんど意識されることがないだろう宗教性は、幼い少女(と大きなお友達)にどのような影響を与えているのだろうか。影響は一過性か、それとも心の奥底に沈殿し、何かの時にふと表面化するのだろうか。

「鬼滅の刃」の宗教性

 ところで、刊行を準備している間に、あれよあれよという間に「鬼滅の刃」が話題沸騰となった。著作には間に合わなかったけれど、マンガを23巻買いそろえ、劇場版とアニメを見た。「鬼滅の刃」が描く死者や死後の世界が気になった。「鬼滅の刃」には実に多くの「死」の場面が登場し、ここぞというときに死者が立ち現れるのである。普通に見ていたら、意識の端にも上らないだろうと思う。筆者が描こうとしているのは兄弟愛や家族愛、仲間との友愛や敵との壮絶な戦いであって、死者や死後の世界ではない。

 あらためて付箋紙を貼りながらマンガを読んでいって、「死」の場面の多さに驚いた。第1話で主人公・竈炭治郎の母親や幼い兄弟たちが殺されている。部屋には血が飛び散り死体が転がっている。マンガの掲載誌『少年ジャンプ』の読者層は10代前代が圧倒的に多い。子どもたちは、日常生活で目にする機会のない「死」が描かれていることをどう受け止めているのだろうか。

 私は死の場面が多いから教育上よくない、なんていっているわけではない。家庭でも地域社会でも学校でも死や死後の世界について教えることない中で、若者はメディア、とくにアニメやマンガを通して死や死後の世界を意識せずに学んでいるのではないか、と指摘しているのである。

煉獄杏寿郎の最期

 詳しくは次回に述べるとして、今回は一例を挙げるにとどめようと思う。劇場版映画「「鬼滅の刃」無限列車編」の興行収入が「千と千尋の神隠し」(316億8千万)を抜いて、日本歴代興行収入第1位(403億円)を記録したことはよく知られている。劇場版の主役・煉獄杏寿郎の最期はどのようなものだっただろうか。

 炭治郎たちに遺言と思われる言葉を残していよいよ事切れようというときに、亡き母親が現れる。杏寿郎は母親に「母上、俺はちゃんとやれただろうか、やるべきことを果たすべきことを全うできましたか?」と問いかけると、母親は「立派にできましたよ」と微笑む。杏寿郎は笑って最期を迎えたのだった。母親は病身で長くない命を悟り、息子の杏寿郎に「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように・・・私はもう長く生きられません。強く優しい子の母になれて幸せでした。あとは頼みます」と言い遺している。杏寿郎が死の間際に母親に問いかけたのは、その答えだった。

 もし母親の出現がなく、杏寿郎の炭治郎たちへの激励だけで終わったら、劇場版の感激はいかほどだっただろうか。杏寿郎の努力は母親によって肯定されて報われたのである。ところで母親の出現であるが、母親は幽霊ではない。時刻は夜が明けたばかりで幽明ではない。体全体が描かれているから、きっと足もある。

 このように指摘されてあらためて死者の登場が意識されるのであって、実際に視聴しているときには特別想起されることはない。この場面も母親と子どもの絆の確認、杏寿郎の行為の肯定に意味があるのであり、母親が死者であることはさほど問題ではないのだろう。

 次回は、死者がどのような役割を持って出現し、死後の世界はどのように描かれているかを論じてみたい。

(後篇はこちら)

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