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「鬼滅の刃」の死後の世界はいいかげん? ――『魔法少女はなぜ変身するのか』の著者が語る現代の死・後篇

記事:春秋社

歌川国芳「地獄絵」(部分)
歌川国芳「地獄絵」(部分)

(前篇はこちら)

叱咤・激励

 前編に続いて、「鬼滅の刃」に見られる死者の役割を具体的に見ていくことにする。「𠮟咤・激励」「褒める」「和解」の三パターンに分けて考えると理解しやすい。まず最初は「𠮟咤・激励」である。

 死者はここぞというタイミングで生者を𠮟咤・激励する。鬼殺隊に入隊するための最終選別で気を失った炭治郎に、死んだ弟が「兄ちゃん」と呼びかける。炭治郎はとたんに目を覚まし、鬼の攻撃をギリギリかわして反撃に転じる。蜘蛛の糸に宙づりにされて意識を失った禰豆子の前に母親が現れる。母親は涙ながらに「禰豆子、お兄ちゃんまで死んでしまうわよ」と話しかける。禰豆子は目を見開き、爆血という技で窮地の炭治郎を助ける。

 死者は意識のなくなった者に語りかけるだけでなく、生者の眼前にも現れる。鬼の童魔に肺を斬られ、出血で息もできない胡蝶しのぶの前に、姉のかなえが現れる。「息もできないの」というしのぶに、かなえは「関係ありません。立ちなさい。倒すと決めたら倒しなさい。勝つと決めたのなら勝ちなさい。どんな犠牲を払っても勝つ。私ともカナヲとも約束したでしょう。しのぶならちゃんとやれる。頑張って」と鼓舞して肩に手をかける。しのぶはすっくと立ち上がり童魔に一撃を加える。

褒める・肯定

 二つ目のパターンの「褒める・肯定」も死者と生者の近さ・関係の深さを表象するものである。煉獄杏寿郎の前に現れた母親とのやりとりは、杏寿郎が汽車の乗客を誰一人死なせず、母親の言いつけを守ったことを「褒める」ものである。姉二人を殺した鬼の童魔をようやくの思いで倒した栗花落カナヲは胡蝶かなえ・しのぶ姉妹の遺品を胸にうずくまる。カナヲの前に二人が現れ、カナヲの頭をなでる。かなえとしのぶが着物姿で手を繋ぎ両親と再会する場面が続き、カナヲは涙する。

 これらは死者による生者の肯定ともいうべきもので、生者の行いは首肯されるべきものであることを読者に訴えている。

和解

 第三のパターンは「和解」で、「鬼滅の刃」の特徴ともいえるものである。やむなく死別した者、対立や誤解したまま死に別れた者と、死を迎えて(死んだ後)に対話(謝罪)し、和解が生まれる。苦しい胸の内をさらけ出して謝罪が行われ、兄妹や家族がひとつになる場面は読者に感銘と満足感を与えるにちがいない。

 悲鳴嶼行冥は鬼滅隊に入る前に子どもを集めて世話をしていた。鬼が住居にしている寺に侵入したときに、子どもたちは一人を残して散り散りになって逃げる。逃げなかった子どもは捜査の場で子どもたちを殺したのが悲鳴嶼行冥だととれるような証言をする。悲鳴嶼が鬼の親玉である鬼舞辻無残と闘い、傷を負っていまわの際に子どもたちがやってくる。子どもたちは散り散りに逃げた理由を明らかにする。悲鳴嶼の誤解は溶け「そうか、ありがとう。じゃあ行こう、皆で・・・行こう」と事切れる。

祖先崇拝の果てに

 現れる死者が果たす役割から「𠮟咤・激励」「褒める」「和解」に分けて具体的な事例を見てきたが、現れる死者と生者との関係を改めて確認したいと思う。現れる死者に「先祖」がいない。竈家も、鬼に殺された母親や兄弟は埋められて手を合わせる様子は描かれているが、すでに病死した父親の墓は描かれない。胡蝶姉妹が天国で会うのも「両親」であって「先祖」ではない。

 伝統的社会では、死者は、柳田国男、竹田聴洲、森岡清美などが指摘してきたように「先祖」だった(先祖以外は祀る者のいない「幽霊」のような存在である)。ところが近年、祖先崇拝を支えていた「家」の変容によって、偉大な先祖に対する崇拝ではなく、愛情を注いでくれた物故近親者に対する愛情・尊敬・感謝へと移行しているのではないかと指摘されてきた(スミス『現代日本の祖先崇拝』参照(上下、1981年、1983年)。「家」を起こして以来、家産を守り繁栄させてきた累代の先祖ではなく、近親者を中心とした先祖への追慕の念を中心とした祖先観である。しかし「鬼滅の刃」に現れる死者はそうした先祖とは無関係である。

 立ち現れる死者は、きわめて直接的な役割を有し、はっきりとした姿をしている。端的に言えば、視点は死者からのものではなく、生者が必要とするからである。直接的にも間接的にも、生者が慰撫され、褒められ、和解したいからこそ、そうした姿で死者は現れる。イニシアチブは生者にあると考えられる。

死後の世界

 鬼舞辻無惨は自らの血を分け与えて鬼を作る。鬼になると人を食う。強い鬼であればあるほど人間を食べている。鬼殺隊によって退治された鬼の中には、猗窩座のように、死んで後に自らの罪を謝罪し亡き家族や兄妹に迎え入れられる者もいる。しかしながら多くの人を食っている以上、死後安楽な世界を用意するわけにはいかないだろう。他方で現世では無念のうちに死んだ鬼殺隊は死後報われる必要がありそうである。一般的に因果応報観といわれるものであるが、これもまたあやふやな状況にある。

 「鬼滅の刃」で描かれる死後の世界はばらばらで統一感は見られない。筆者は死後の世界そのものを描こうとしたわけではなく、死による別離と再会による和解、諍いや対立のない幸せな家族や兄妹の状態を示すことに目的があったと考えられる。目的のために選ばれた描写は都合の良いものであったということになる。

 吾妻善逸は修行の兄弟子である獪岳(上弦の六の鬼)と死闘を終え、瀕死の状態になる。傷つき血だらけの善逸が目を開けると川岸に立っていて、対岸には育手の桑島慈悟郎がいる。中央には蛇行する川が描かれているが、これが三途の川ではないかと指摘されるのである。

 善逸の立つ場所は此岸で川を挟んで桑島は彼岸にいる。伝統的な三途の川とはまったく異なって描かれている。生者と死者の世界は、彼岸に木があるものの基本的には変わらない。足下には彼岸花のような花が咲いていて、わざわざ善逸の「何だこれ、足に絡まって」というセリフが付されている。おそらく対岸へ渡れないのであって、善逸はまだ此岸にとどまることを意味している。善逸が獪岳との和解のならなかったことを謝罪すると、桑島は「お前は儂の誇りじゃ」と話す。そして次のコマで善逸は目を覚ますのであった。子弟の絆の強さが示される場面で、獪岳との和解のならなかったことの承諾である。ちなみに善逸と獪岳が和解する場面は他の箇所でも描かれていない。

死後は暗い世界

 死後の場面で「川」が描写されるのはもう一箇所だけで、他の場合は「暗い世界」が多い。つまり具体的な死後の世界は描写されず、明るい日常的な状態とは異なっているという点が示されるだけである。猗窩座が首を切られたにもかかわらず再生しようとするのを妻の恋雪がとどめるが、背景は暗い世界である。恋雪は妬んだ隣の道場主によって毒殺されたが、死後の世界のどこかにとどまり、猗窩座を待っていたことになる。台詞からも、猗窩座が何をしてきたかを知っている。生者を待つ死者はあちこちで確認することができる。

 不死川実弥は傷ついて生死の際をさまよっているときに、先に闘いで死んだ弟の玄弥が他の兄妹と花咲く明るい場所で笑っている様子を見る。鬼になった母親を捜すが真っ暗な闇の中から「駄目なのよ・・・みんなと同じ所へは行けんのよ・・・我が子を手にかけて天国へは・・・」と答える。母親は鬼になって子どもを殺している。母親の言葉から、明るい皆が集まっている場所は「天国」である。対照的に暗い場所は「地獄」である。胡蝶しのぶは敵の鬼・童魔が死んだところへ現れ「死にました、これで成仏できます」と述べる。「成仏」に対応する死後の世界は浄土だと思われるが、ここでもゆらぎが見られる。

 興味深いのは、死者が会いたい人を待っている、どちらの世界へ行くにしても向かう時期は自分で決められるような場面や台詞が少なくないという点である。個人の意思や判断が死後のルールに優越している。

 堕姫と妓夫太郎は同時に頚を斬られて罵り合う。妓夫太郎は人間だった頃の記憶を思い出し暗闇の中で本来の人間の姿に戻った梅(堕姫)と再会し、梅だけを光がある方に向かわせるため突き放す。しかし妓夫太郎は、「ずっと一緒にいる」「何度生まれ変わってもお兄ちゃんの妹になる」と言われ、梅を背負いながら地獄の業火の中へ消えていく。この場合はかなりはっきりと「地獄の業火」と思える炎が描かれる。

極楽ではなく天国

 他方で天国もきわめて曖昧である。不死川実弥は傷ついて生死の際をさまよっているときに、向こう(天国)にいる弟たちと暗闇にいる母親を見つける。弟たちは花咲く中で笑っている。胡蝶姉妹が闘いの後、手に手を取って家族の元へ向かうのは(桜の?)花びらが散る天国であろうか。他方で、時任兄妹が和解して抱き合うのは銀杏の葉が散る世界である。不統一感は否めない。

生まれ変わり

 鬼舞辻無残にようやくの思いで勝った隊士たちの損害も小さくなかった。八人の柱の内生き残ったのはわずかに二人。産屋敷家の当主、妻、二人の子どもも爆死した。生き残った者も片手を失い、目の機能も衰えた。郷里に帰った炭治郎たちは残されたわずかな余命を笑顔で過ごしている。巨大な敵を倒した満足感と死んだ者への哀悼が捧げられる。

 物語はここで終わってもよかったのかも知れないが、ストーリーは突如「現代」へと場を移す。炭彦(炭治郎の子孫)が部屋で寝坊を決め込んでいる。兄のカナタ(カナヲに似ている)が現れて起こそうとする。その後通っている高校での生活が描かれるだが、登校の際や学校で、大正時代の鬼狩りで死んでいった仲間が次々と現れる。最後の頁近くには生まれ変わりを示すような両開きの一覧が掲載されている。大正時代の仲間は現在どうなっているかが一目でわかる。○○の子孫、が多そうであるが、伊黒小芭内と甘露寺蜜璃は生前添い遂げられずに生まれ変わったらという約束通り、結婚して定食屋を営んでいる。そしてストーリーは再び大正時代に戻り、断片的な仲間の画像の絵が続き、筆者のメッセージがあって終わっている。

 無残に死んでいった仲間が来世で楽しく暮らしている様子は、読者にとってはうれしい光景であるに違いない。だからといって、「生まれ変わり」が強く主張されているわけではない。一覧に漏れている人物もいるわけだし、地獄へ行った者は永久に地獄なのだろうか。

生者と死者の共同体から生者の世界へ

 繰り返すが、本論は「鬼滅の刃」の死後観が矛盾しているとか、相反しているといったあら探しをしているのではない。長い研究生活の中で、絶えず先祖崇拝に心を砕いてきた森岡清美の考察を踏まえて終わりにしたいと思う。森岡は柳田国男のいう「先祖」を崇拝の対象である祖神とみるか、敬愛の対象である物故近親を先祖とみるかを考察した後に、核家族化し高齢化した現在、「供養の機能が慰霊鎮魂から記念追憶へと変化したことは明らか」として、個人化は「物故近親の供養とは結びついても、家の先祖祭祀とはもっとも遠いので、家の先祖祭祀は個人化のなかで危機に瀕しているといってよいのではないでしょうか」と指摘している(森岡清美「先祖供養と家族」『中央学術研究所紀要』第34号、2005年)。

 いきなり短い文章で説明されて難しいかもしれないが、森岡の指摘から20年近くたった現在、世帯の形態は三世代世帯でも核家族でもなく、単身世帯がもっとも多い。未婚率は男女平均して20パーセントを超えている。森岡のいう物故近親者は血縁で結ばれた者である。しかしながら個人の関心や意見が最優先される社会の中で、「敬愛」されるのは血縁者とは限らない。生前に仲のよかった人、誤解を解くことのできなかった人、愛情によって結ばれた人というように、血縁とは異なる理由によって関係を持った人が、生者の都合によって思い出され、生者の求めるニーズを満たしているのではないだろうか。「家」は若者には想像もつかない代物で、祖先崇拝もまた消えつつある中で、死者は生者の思いの中にしか存在しなくなっている、といったら言い過ぎだろうか。

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