キーワードとしての〈敷地〉 陣内秀信『東京の空間人類学』
記事:筑摩書房
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このような都市の傑作、江戸を引き継いだ東京は、明治以降、都市の物理的な構造をどのように変化させてきたのであろうか。幕藩体制の政治的中心〈江戸〉から近代国家の首都〈東京〉への制度的にはドラスチックな転換も、実は都市構造という点から見れば、江戸のそれを一気に否定するような急激な変化として現れたわけではなかった。明治の初年から、それまでの歩行を主体とした狭い道路が拡幅されたり、封建都市特有の自閉装置として節々に設けられていた桝形や曲の手が撤去されたとはいえ、全体として見れば東京はむしろ、しっかりと組み立てられた江戸の都市構造を受け継ぎ、その上に乗っかりながら近代の都市形成を行ったといえる。そして変化はもっぱら、生きた都市の細胞にあたる部分部分、すなわち個々の敷地の中ではなやかに展開した。すなわち、住み手を失い空洞化した広範な旧武家地の敷地において、新たな東京の担い手たる薩長を中心とする地方武士たちの手で、中身の置き換えや新しい要素の導入が次々に進められ、首都東京は新時代の要請に応える都市へとその機能や意味を適確に変えてきたのである。いうならばこうしたソフトな都市改造を実現する上でとりわけ大きな役割を果したのは、江戸を引き継いだ東京のあちこちに分布する旧大名屋敷の存在だった。
このような独特の都市形成を見せた近代の東京には当然、城下町江戸から引き継がれた、外国の都市には見られない個性的な都市の構成原理が存在するし、それがまた視覚化されてユニークな都市景観が生み出された。その意味でも、東京の都市の特徴を読みとる最大の鍵は、まさに江戸の空間構造との関係を見抜くことにあるといえるのである。
このように、基本的には江戸の都市構造を下敷きとしながら、きわめてソフトでしなやかな都市改造によって近代の都市形成を実現してきた東京の成り立ちを解読するには、次のような手順が必要となろう。
1 近世に成立した都市の文脈の解明
2 その上に近代の要素が入りこむメカニズムの解明
3 その結果成り立つ独特の構造の分析
このような観点から、まず近世の都市の文脈を読むために、我々はすでに江戸・東京の地形から始め、道路のネットワーク、さらに、その上に成立した住み分けや土地利用の形態について概観してきた。
そこで次に、階層的身分に応じてそれぞれのゾーンごとに成り立っている居住の型ともいうべきものに目を向けてみたい。そこにもやはり、長い歴史的経験から生まれた知恵を背景として成立している独特の空間構造を見出せる。つまりそれぞれのゾーンには、土地利用の上で理にかなった街区や敷地の形態が見られるし、各敷地における建物配置の定石、さらに平面・構造・意匠などから見た建築の類型も確立している。同時に、人々の目に映る街路に面した表側でも、格式を表す様々な装置(長屋門、門、塀、前庭など)が時代とともに形式を整え、町並みの景観構造が確立してくる。これらはいずれも、もともと生活上の機能と結びついて生まれたものであるが、やがて人々の間で共有化された文化的規範となり、象徴的意味や美意識をも形づくるにいたったのである。
このようにして近世における都市の精緻な文脈が成立していた。東京の前身江戸はまさに、全体の構図から個々の場面にいたるまで、見事なシナリオによって組み立てられた、世界に誇るべき都市の傑作だったといえよう。
こうしてできあがった城下町江戸の各ゾーンにおける都市の文脈は、ほとんど乱れることなく近代にも連続的に継承された。町人地は商人・職人の住む商業施設として、旗本屋敷は華族、政府高官、新興ブルジョアなどの邸宅として、下級武家地は中流サラリーマン住宅地として、それぞれ旧来の生活や文化を引きずりながら、東京における近代の都市形成をがっちりと担ってきた。しかも町割・地割といった物理的枠組みをそのまま踏襲したばかりか、多くの場合、文化的規範である敷地内の配置や建物の間取りなどにも連続的な展開が見られた。
このような近世からの安定した〈文脈〉のなかに、山の手なら洒落た洋館や応接間、下町なら洋風の店舗正面といった近代の目新しい〈要素〉が意欲的に付け加えられ、日本の近代ならではのユニークな折衷的相貌が形づくられた。しかしながら、その根底をなす〈空間構造〉の次元には、江戸以来の本質的な特徴がそのまま引き継がれたのである。
このような歴史のなかでの蓄積は、時が移り、古い建物が失われても、簡単には消え去るはずがなく、基本的には現在のそれぞれの地区に受け継がれ、生活や文化の無性格化への歯止めとなっている。これほどまでに近代化し、均質空間化しつつある東京のなかにあっても、山の手の広い範囲に個々の場所のイメージがいまだによく継承されているのは、変化に富んだ地形やそれと結びついた緑の分布によるばかりか、このような敷地、建物、街路の組み合わせが全体としてつくり出す、一種独特の人類学的構造とも呼ぶべき空間構造の賜物なのである。
さて、土地の相を巧みに読み、場所の固有性を最大限生かしながら都市づくりを進めた江戸・東京を相手に、歴史的、文化的文脈のなかでその都市や建築の形成を考えるには、〈敷地〉という次元に着目するのが有効な方法ではなかろうか。それは一方で、都市の側とは、地割・町割、道路との結合、地形との関係を通じて直接結びつくし、他方、建築の側とは、門・アプローチ・庭・空地などのレイアウトとも関係しながら配置構成というレベルで密接に結びつく。しかも、内部に日常の俗なる空間ばかりか庭園や祠などの聖なる空間をも取りこみ、多様な要素、意味を濃密に詰めこんで、それ自体が一つの小宇宙を形づくっている。場所の固有性を十分にふまえて成り立っている山の手にあっては特に、〈敷地〉は都市を読む重要なキーワードとなりえよう。
街路に沿って建物が壁を共有しながら連なるヨーロッパ都市では、敷地=建築という性格が強く、敷地全体を建築化しようとする傾向が見られるのに対し、日本の都市では、町家から大名屋敷にいたるまでどれをとっても、敷地内の庭をはじめとする外部空間に重要な意味がこめられ、それと建築との緊張関係が生み出す様々な形式が、生活文化の構造を理解する上で非常に重要なものとなっている。したがって、建築そのものばかりか、〈敷地-建築〉の型が大きなテーマとなる。特に、明治以降異文化を摂取しながら展開する東京の都市・建築の近代化の問題を見る場合には、こうした伝統的な空間意識の上にそれが導入されたという事実を見落とすことはできない。
(『東京の空間人類学』「Ⅰ「山の手」の表層と深層」より抜粋)