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フェミニズムの本でもある?――E・ウィリンガム『動物のペニスから学ぶ人生の教訓』

記事:作品社

Lowland Gorilla (2002) by Jessie Cohen.(Public Domain)
Lowland Gorilla (2002) by Jessie Cohen.(Public Domain)

本書について

 動物の性行動や生殖器に関するポピュラーサイエンス書は、オリヴィア・ジャドソン『ドクター・タチアナの男と女の生物学講座』(光文社)やメノ・スヒルトハウゼン『ダーウィンの覗き穴』(早川書房)など、これまでにも数多くの作品が書かれてきました。

 そうした系譜を受け継ぎつつ、しかし本書は、これまでの性淘汰の進化生物学研究そのものが、男性優位社会の文化的背景の影響を受けてきたことに力を入れて論じている点で、ほかと一線を画しています。

 原題の “Phallacy” が「男根(Phallus)」と「誤謬(Fallacy)」を組み合わせた造語であるのも、こうした意図の表れでしょう。オンラインマガジン『スレート』に掲載されたインタビューで、著者ウィリンガムは本書のジャンルについて、「生殖器の進化生物学と社会文化的要素の混交を解きほぐす」本であり、「フェミニズムの本でもある」と答えています。

『動物のペニスから学ぶ人生の教訓』(作品社)
『動物のペニスから学ぶ人生の教訓』(作品社)

生殖器の多様性

 「ペニスの話題ほどクリックを集めるものはない」と言う著者は、動物たちの生殖器や性行動に並々ならぬ関心を抱いて本書を手に取った読者の知的好奇心を、脊椎動物から節足動物、軟体動物まで、古今東西の生殖器研究からの選りすぐりの事例で満たしてくれます。

 相手の性別すら構わずペニスを腹腔に突き刺して精子を注入するトコジラミ。24時間にわたって複雑なシークエンスの前戯に興じるツェツェバエ。精包を仕込んだ交接腕がオスの体からちぎれ、単体で這い進んで受精に挑むアオイガイ。読み終えたみなさんも、驚嘆したり、くすっと笑えたり、ちょっと不気味だったりする、誰かに話さずにはいられない新情報が見つかったのではないでしょうか。

 個人的にいちばんのお気に入りを選ぶなら、枝分かれしたペニスの付属突起を直腸に挿入するという哺乳類としては異色のフクロネコも捨てがたいのですが、第7章に登場するヒメグモの1種を推したいと思います。触肢をみずから糸でぐるぐる巻きにして折り取ったうえ、(傍註によれば)無傷のオスよりも50パーセント速く走って、自分よりはるかに大きな捕食者であるメスのもとに向かう、過酷すぎる聖火ランナーのようなアプローチには(過度の擬人化は禁物とはいえ)同情を覚えずにはいられません。

 それはともかく、こうして膨大な多様性の一端に触れるだけでも、何か1種の動物の生態からヒトにそのままあてはめられる教訓などあるはずもなく、そのような言説は事実よりも、発言者の意図や願望を反映したものでしかないことがよくわかります。

親密で非暴力的な接触

 こうした途方もない生殖器の多様性は、かつては「鍵と錠前」、すなわち物理的に同種他個体を認識し異種間交雑を妨げるメカニズムとして進化したと説明されてきました。しかし、この仮説はそもそも「種にとっての利益」を中心とした群淘汰的な考えに基づいていることに加え、種内の多様性がすべて新種の証拠とされかねない、実際に野生下で起こっている種間交雑を説明できないといった、多くの欠点がありました。

 なかでも最大の問題は、同種のオスとメスの生殖器の完全なフィットという前提が、どちらかを調べれば事足りるという思い込みにつながり、オスの生殖器への極端な研究の偏りが生じたことでした。幸い、進化生物学の研究の進展に伴い、ここ数十年で性淘汰理論が精緻化され、交尾前性淘汰(例えば、生殖器の内外からさまざまにメスを刺激して受精確率を高める付属器官)、交尾後性淘汰(例えば、以前に交尾したほかのオスの精子を除去する構造)、オスとメスの利害対立(例えば、体サイズに対して極端に大きなペニスで強制交尾をはかるカモのオスと、それに対抗して逆巻きのらせんや袋小路といった「鍵を食い止める錠前」の構造を進化させたメス)といった形で、生殖器の進化のパターンとプロセスが動的に理解されるようになりました。

 こうした背景を踏まえると、「武器も、硬いパーツも、バールのような機能もない」ヒトのペニスを形成した淘汰圧は、極端な性的対立ではなく、親密で非暴力的な接触を通じた絆の形成であったという、重要な示唆が浮かびあがります。これは、ヒトの心の適応を生み出した社会的環境は、両方の性で構成された重層的な大集団と、そのなかでペアの絆を基盤として維持される連続的一夫一妻制(ある時点で見ると一夫一妻だが、個体の生涯のなかでは複数のパートナーを経験する)であったという、多くの進化心理学者が同意する解釈とも符合しています。

〈進化〉といかに向き合うか

 著者の進化心理学に対する姿勢は、明言されてはいないものの、一部のずさんな研究に対して苦言を呈しているというよりも、分野全体に対して否定的、懐疑的であるように思えます。私見を述べるなら、学生時代に日本国内の進化心理学の研究拠点のひとつである研究室に籍をおき、進化心理学分野の書籍の監訳にも関わった身としては、ヒトの心のはたらきを理解するうえで自然淘汰理論がきわめて有用な指針であることに疑問の余地はありません。

The human DNA model takes on a double helix shape (Public Domain)
The human DNA model takes on a double helix shape (Public Domain)

 一方で、そもそも質の疑わしい研究結果が、さらに単純化され曲解されて、露悪的な発言が注目や称賛を集めがちなSNSで拡散されるといった、分野への信頼が損なわれかねない事態が、昨今とくに目につく印象も抱いています。

 心理学研究はしばしば、「WEIRD」な、つまり西洋の(Western)、教育水準が高く(Educated)、工業化され(Industrial)、裕福な(Rich)、民主的(Democratic)社会に偏って抽出されたサンプルから得られた知見をすべての人に一般化しがちな点を批判されますが、進化心理学においては、知見の適用範囲をいま生きている人どころか、過去の数万世代にまで広げることになりがちで、誤差の大きさは致命的なものになりかねません。

 20世紀後半における進化理論の現代的統合の立役者のひとりであるジョージ・ウィリアムズは、適応は「特別で煩雑な概念であり、本当に必要な場合にのみ用いられるべき」、すなわち、ある形質が自然淘汰の過程で選び出されてきた結果として出現したことを裏づける確たる証拠がある時にだけ、それを適応と呼ぶことができると忠告しました。

 本書を読み終えたみなさんはきっと、次にものごとを(とくに暴力や抑圧や不平等といった理不尽を)「進化的」あるいは「生物学的」にキャッチーに説明するようなコンテンツに触れた時、こうした慎重さと健全な懐疑主義をもって、そこに本当に科学的事実があるのかどうかを判断できることでしょう。

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