安全保障政策と憲法9条との関係は? 冷静な憲法論議を行うための論点を整理
記事:晶文社
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ロシアのウクライナ侵攻を受けて、日本国内でも、核兵器の「保有」や「共有」の議論が聞かれました。核兵器とは、核分裂・核融合など原子核反応から生じる膨大なエネルギーを破壊・殺傷のために用いる兵器です。核兵器は人類が生み出した兵器の中で最大の破壊力を持っており、人類全体を破滅させかねない兵器として最大級の警戒の対象とされてきました。1945年には、広島・長崎に原子爆弾が投下され、筆舌に尽くしがたい被害が生じました。
日本は被爆体験を踏まえ、核兵器について「持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則と呼ばれる防衛政策を採用してきました。この原則は、1967年(昭和42年)12月11日の衆議院予算委員会で佐藤栄作首相が表明したもので、それ以来、日本の防衛政策の要の一つとなってきました。
では、憲法9条と核兵器、あるいは非核三原則はどのような関係に立つのでしょうか。政府解釈によれば、憲法9条は自衛のための必要最小限度の実力を超える戦力を持つことを禁じた規定です。この解釈では、「必要最小限度の実力」の範囲は、国際的な状況によって変わり得ます。
例えば、「国際社会の努力によって、戦争が全く想定できず、核兵器はもちろんあらゆる兵器が廃絶された」という状況が実現すれば、竹やりや水鉄砲ですら、兵器として保有することは違憲となるでしょう。他方、「核戦争が頻発して、その保有以外に自衛手段がない」という悲惨な国際状況になれば、核兵器も「必要最小限度の実力」に含まれる可能性があります。
その意味で、核兵器の保有はどんな状況でも憲法上一切許されないというわけではなく、合憲・違憲は国際状況との兼ね合いで決まるということになります。
ただ、アメリカと安全保障条約を締結しており、核による威嚇や核兵器の行使が頻発しているわけでもない今の状況で、核兵器の保有が「必要最小限度の実力」に含まれると評価するのは難しいでしょう。
また、憲法98条2項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と定めます。日本は1970年(昭和45年)に核不拡散条約(Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons : NPT)に署名し、1976年(昭和51年)に批准しています。この条約では、日本は核兵器を保有しないことを求められていますから、核保有は、憲法9条の必要最小限の縛りとは別に、条約と憲法98条2項によっても禁止されています。
日本での防衛政策の議論は、憲法9条ばかりに目が行きがちです。しかし、核兵器に限らず、兵器の保有は、憲法9条だけでなく、国際的な条約で規制されることもある、ということには注意が必要です。例えば、日本は、1998年(平成10年)に対人地雷禁止条約(1999年・平成11年発効)を締結し、地雷の保有は禁じられています。
一方、「核共有」とは、アメリカ軍の核兵器を日本国内に配備し、その使用について、日本政府が意見を述べられるようにするものです。これは、非核三原則の「持ち込ませず」の部分に反するため、大きな政策転換となります。
ただ、「日本政府が意見を述べられる」と言っても、核兵器を使用するかどうかの決定権は、あくまでもアメリカ政府にあります。核兵器が配備された場所が重要な攻撃目標となることからすれば、それが配備された国の政府が意見を述べられることなど、当然のことにすぎないでしょう。現在すでにアメリカと日本は安全保障条約を締結していることを考えると、日本国内への核兵器の配備が抑止力を向上させるかは不透明です。
また、これまで配備されていなかった核兵器を配備すれば、周辺国との緊張は高まり、戦争時には最優先の攻撃目標になります。これでは、日本の安全をかえって脅かすことになりかねません。こうした点から、「核共有」の議論は立ち消えになりました。
政府の理解によれば、憲法9条は、核兵器の保有それ自体を一切合切禁じるものではありません。しかし、「正義と秩序を基調とする国際平和」(憲法9条1項)を実現するために、核兵器の廃絶や禁止に向けて最大限の努力が必要なことは言うまでもありません。
(『増補版 自衛隊と憲法――危機の時代の憲法論議のために』木村草太著より)