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「核なき世界」の理想を切り下げてはならない 三牧聖子さん・評『核と被爆者の国際政治学』

記事:明石書店

おりづるタワーから望む広島平和記念公園と原爆ドーム
おりづるタワーから望む広島平和記念公園と原爆ドーム

繰り返される核の脅し

 2022年2月、核保有国ロシアがウクライナに侵攻した。半年経った今も戦闘は続き、その間プーチン大統領は何度も核の使用をほのめかしてきた。ロシアの軍事ドクトリンは、大量破壊兵器による攻撃を受けた場合と、通常兵器による攻撃で「国家存立の危機」となった場合に、核使用を検討するとしており、ウクライナでの戦争を無理やり「国家の存立危機」とあてはめる可能性も否定できない。

 核が現実に使われる脅威は高まり、核軍縮への動きは停滞している。そして日本でも、ウクライナ侵攻は他人事ではないと、核共有や非核三原則の見直しを求める声が大きくなっている。「核なき世界」という被爆者の願いはますます遠くなっているように見える。

 しかしそのような「現実」があるからこそ、広島と長崎の被爆者たちはいっそう声高に核廃絶を掲げている。8月6日、原爆投下から77回目の「原爆の日」を迎えた広島で、松井一実市長はロシアの文豪トルストイの「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない」との言葉を引用しながら、ロシアの核による威嚇を強く非難し、「一刻も早く全ての核のボタンを無用のものにしなくてはならない」と宣言した。

 「原爆の日」を前に、読売新聞社と広島大学平和センターが広島・長崎の被爆者100人に実施したアンケートでは、核兵器の保有が大国間の戦争の抑止力につながるかという問いに、3分の2にあたる66人が「使用のリスクを高めるだけで抑止につながらない」と回答し、「抑止力になっている」(33人)を凌駕した。「原爆の恐ろしさが世界に十分伝わっていない」と、被爆者の声を世界に広げることへの使命感を新たにし、来年5月に広島で開かれるG7サミットをその最後のチャンスとみなす被爆者も多い

核廃絶への願いと安全保障のジレンマ

 とはいえ、被爆者もジレンマを何ら感じていないわけではない。広島大学平和センター長の川野徳幸氏によれば、大手新聞と提携して行った調査で、被爆者の9割以上が核廃絶を望む一方、4割が「核の傘」に安全保障を依存する日本政府のスタンスを「やむを得ない」と消極的に受容しているという結果が出たという。被爆者も、理想と現実のはざまで苦しみながら、核廃絶を求め続けている。

佐藤史郎『核と被爆者の国際政治学:核兵器の非人道性と安全保障のはざまで』(明石書店)
佐藤史郎『核と被爆者の国際政治学:核兵器の非人道性と安全保障のはざまで』(明石書店)

 日本は、そして世界は、どのような核政策を追求すべきなのか。ロシアによるウクライナ侵攻後、ますますこの問いは難しいものとなっている。「被爆者が核兵器の非人道性を語ることは、国際政治においてどのような影響を及ぼすのか」を正面から問うた『核と被爆者の国際政治学』は、この困難な問いの最良の導きとなろう。

 「あとがき」によれば、このテーマは著者である佐藤史郎氏の英国留学時代の恩師の一人、オリバー・ラムズボサム教授からの“宿題”で、20年かけて大事に追求してきた問いとのことだ。本書は核抑止論と核廃絶論、一方が「理想主義」であることを暴き出し、他方に軍配を上げようとする類の本ではない。むしろ本書が強調するのは、「核兵器の非人道性をめぐるアポリア(難問、行き詰まり)」と正面から向き合うことの重要性である。

 被爆者が被爆経験を語り、核の非人道性を訴えるのは、もちろん核廃絶を願ってのことだが、佐藤氏は核の非人道性を語ることが、核抑止論の正当化を強めてしまうケースもあると指摘する。

 1998年に核実験を行ったパキスタンのナワズ・シャリフ首相は、核実験に踏み切った理由の1つに「ヒロシマ・ナガサキの二の舞を避ける」ことを挙げた。つまり、被爆者が核廃絶を願って核の非人道性を強調していても、受け手側が「広島と長崎の人々が経験した非人道的な事態から自国民を守るために、核兵器を保有し、抑止力を身につけなければならない」といった核抑止論へと転換してしまうことがある。こうしたアポリアを前に、それがないかのように装うことは知的な欺瞞である。佐藤氏は、アポリアと向き合い、誠実に悩む義務が私たちにはあると強調する。

被爆者の声は現実に対して無力か?

 本書の白眉は、被爆者の「語り」の複数性・多様性を徹底的に追求している点だ。佐藤氏は、核の非人道性を「語る」被爆者のみならず、「語らない/語れない」被爆者が存在することに注意を促す。

 流暢な英語で核兵器禁止条約の意義を語り、同条約への日本の参加を力強く呼びかけてきたサーロー節子氏は、国際社会で「語る」被爆者の典型的な例だ。彼女の功績は疑い得ない。佐藤氏はそう強調したうえで、彼女のような国際的な存在ばかりに注目が集まることで、より著名でない日本の被爆者が語りにくさを感じたり、罪悪感やトラウマでいまも被爆経験を「語らない/語れない」被爆者の存在が、ますます不可視化される危険があるとも指摘する。私たちは、「語る」著名な被爆者の陰に、多様な被爆者がいることへと想像力を常にめぐらせる必要がある。

 さらに、被爆者みんなが、核兵器のない世界を展望できる心的状態にあるわけではない。自分だけが生き残ってしまった、という罪と恥の意識を抱きながら生き続ける被爆者もいる。しかしここで佐藤氏は問いかける。今でも「過去」しか生きられないこれらの被爆者は、核の非人道性を語っていないのかと。その答えはノーだ。かれらが「未来」を語ることができないのは、「過去」の原爆体験の強烈な記憶やトラウマのせいである。つまり、かれらが容易に核なき世界を「語らない/語れない」事実そのものが、核の非人道性を如実に示している。それは「言葉による語り」に代わる「存在自体による語り」なのだ。

 興味深いことに、日本における現実主義の代表的論客として知られる国際政治学者の高坂正堯(1934-1996)も、核廃絶などは被爆者の「理想主義」だと軽視することはなかった。むしろ、被爆者による核の非人道性の語りが、核は使われてはならないという核禁忌を醸成・強化し、核が使用されにくい状況をもたらしている「現実」を率直に認めていた。

 現実に核が使用される危機が高まっている今だからこそ、私たちは核なき世界への理想を切り下げてはならない。そのために必要な、アポリアから目を逸らさない知的誠実さと、多様な被爆者の「語り」を記憶・継承し、国際政治の現実に反映していくための知恵を、本書は存分に教えてくれる。

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