メアリー・ウォーノックが探究する倫理の根源:『考えるあなたのための倫理入門』の著者が説く、倫理的思考の鍛え方・後編
記事:春秋社
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*カギ括弧で示した直接引用は、『考えるあなたのための倫理入門』からのものである。
ウォーノックはとても要を得た書き手で、どの著書も原著で100ページから、長くても200ページ程度、しかしどれも内容は濃い(無駄を削ぎ落として簡潔にまとめてくれる話し手や書き手は、誰にとっても――特に私のような研究者には――とてもありがたい)。『考えるあなたのための倫理入門』もたいへんコンパクトな本だが、ウォーノックがその長いキャリアを通じて取り組んだ哲学的テーマを倫理学に関連させる形でほぼ全て網羅していて、彼女の哲学の精華が凝縮された主著と言える。この本には、哲学者でありパブリック・インテレクチュアルとしてイギリス内外で尊敬された哲学者ウォーノックが私たちに遺したメッセージと課題が詰まっている。
1992年、メアリーの夫ジェフリーに特発性肺線維症の兆候が見られた。この病気に罹ると、肺が血中に酸素を取り込む機能が低下し、人工呼吸器を使わなければ呼吸ができなくなり、ついには死に至る。有効な治療法はなく、ステロイド剤によって病状の進行を抑制できる程度である。ジェフリーは病状が進行したとき、入院して人工呼吸器に依存する生活をおくることを拒否し、自宅で過ごすことを選んだ。末期の苦痛と不安とを緩和するためにモルヒネの投与を受けながらも、英雄的とも言える態度で病気に立ち向かった。
1995年10月8日、ジェフリーは娘と孫の訪問のあと、30分ほど一人にしてほしいと頼んだ。そこでメアリーがしばらく散歩をして戻ると、彼はバスルームの床に倒れて亡くなっていた。人工呼吸器は外されていた。明らかに、彼は自らの手で決着をつけたのだ。
このエピソードは、作り話とまでは言えないがある程度脚色の加わったエピソードとして――避けられない死に臨む女性とその夫という設定で――『考えるあなたのための倫理入門』の第1章に収められている。もう一つの、やはり人の死期の選択にまつわるエピソードと共に、死を選びたいという本人ないし家族や関係者の希望と、その希望に沿うことがどのような倫理的・法的問題を引き起こすかということが、さまざまな角度から丁寧に検討されている。
メアリー・ウォーノックは物事をさまざまな角度から考え抜いて結論を出す人である。そしてそのような結論を、異論を恐れずに世の中に向けて発信してきた。その代表的例が、安楽死をめぐる議論である。
ウォーノックは新聞への寄稿や上院での議論において、末期の病状にある人などが自ら死を選んだり医師が手を貸すことを合法化する論陣を張ったこと、さらには認知症の進行などにより家族や社会の負担にしかなっていないと本人が自覚する場合はそうする義務さえあるとまで主張したことで議論を呼んだ。
彼女はこの他にも多くの倫理的な問題に取り組み、その多くは本書で取り上げられている。社会の経済的負担に見合う貢献をできる見込みのない、重度の障がいを持つ人々への教育的配慮は正当化し得るか。ヒト胚の実験利用は認められ得るか。人間用の薬品開発を目的として、動物を実験に使い、その後殺処分することは許容されるべきか。人間は自然環境や動植物を所有していると言えるのか。これらさまざまな問題について、彼女の発言は多くの人々によって傾聴された。そのような人たちでさえ、自死をめぐるウォーノックの主張にはショックを受けた。しかし、彼女は生きるに値する生という論点を徹底的に突き詰め、議論の俎上に載せる勇気を持っていた。
『考えるあなたのための倫理入門』で、ウォーノックは倫理に関わる問題を2つの側面に分けて考察する。個人的な価値観、信条、同情心や利他の感情といった道徳感覚や良心のレベルである「私的倫理」と、人々の利害や価値観を調整するために、民主的な観点から容認できる法律や政策に結実する「公共倫理」のレベルである。
末期の患者や植物状態にある患者の生を終わらせるのに手を貸したい、または貸すべきだと思う医師の考えや感情は、これに同意する人も、別の考え方をする人もある、私的倫理である。他方、安楽死や自殺幇助を認める法律を作るかどうかは、人によって異なる考え方や感じ方や価値観を調整して、法律や政策という形にする公共倫理の問題である。
私的倫理と公共倫理を区別できなければ、それは「そいつはムカつくね、違法にすべきだよ」と居酒屋でクダを巻く酔っぱらいの議論のレベルを出ることができない。ある判断や価値観は、「これを法律にしたら、誰にどういう影響を与え得るか?」などの理性的な検討を通じて、あらゆる人とは行かないまでも多くの人にとって容認できるものにならなくてはならない。ウォーノックは、生命倫理に関する委員会の検討作業を通じて、哲学の議論で追求される「正しい」(right)に比べて曖昧で官僚的な言葉遣いなので好きではないものの、「容認できる」(acceptable)という考え方を用いることの重要性を学んだと述べている。
私的倫理と公共倫理を区別し、両者がどう関わり合うのかを読み解くのが、本書の少なくとも前半を理解する鍵だと言って良い。そして後半では、「私的倫理」の本性、つまりわれわれの倫理の源にあるのは何かという問題が追究される。倫理の源は道徳感覚、そしてその基礎にある想像力である。
公共倫理は利害を調停し、個人の権利を守るという、いわば利己的な要求の調整に関わるものであり、もし倫理がこれだけに依存するなら、それは権利が侵害されたという怒りだけで市民社会が出来上がることを意味する。しかし市民社会が機能するためには、「少なくとも、幾らかの人たちが悪徳よりは有徳、不正直よりは正直、悪よりは善であろうとする信念、集団としても個人としても最善を尽くそうとする信念を持っている必要がある」のだ。つまり、共感や同情や利他心といった道徳感情にもとづく私的倫理、自分が善くありたいという意識がなくてはならない。この私的倫理の礎が想像力である。他の動物と違い、人間だけが「他人を実際に見ていようが、想像上であろうが、思い出すのであろうが、自分について語るのとまったく同じ言葉で他人について語ることができる。それなので、たとえ誰が空腹であろうとも、それがどのようなことか想像でき、その人を救うために何かを諦めようと気になることができる。・・・われわれの持つ力、つまり自分のすぐ近くにはないものを自分の心の前に持ってくる想像力によって、われわれは同情心を広げ、他人の快も苦痛も感じることができるのである。」
ここで重要なのは、想像力とは単にあれやこれやと考えるだけでなく、「感じる」ものでもあるということである。この「考え、感じる」力があるからこそ、われわれは、自分が経験すること(例えば空腹)を他の人も経験しているのだと感じることができ、そこに同情心や利他心という倫理にとって必要不可欠のものが生じる。そして、想像力を用いるからこそ、「私は何をすべきだろうか」という個別の私的な問いを、「人は何をすべきだろうか」という一般的な問題としてとらえることができる。
しかしその一方で、自らの利と快とを追求しようとする願望は、われわれ人間にとってしばしばとてつもなく強い。だからこそ、何が善いことなのかを考え、その考えに従って自らの願望や欲望や弱さを抑制できるようになるための教育が必要なのだ。また、人間は教わることなしにそうできるとは限らない。この意味でも教育が重要である。
ウォーノックは倫理教育の最大の敵として相対主義と原理主義を挙げる。前者は、恒久的な価値や善などないとする冷笑的な態度である。このような態度をとることは、伝えるに値する価値などないと思うことであり、それは教育の根底を掘り崩してしまう。
また、相対主義を避けようとするあまり、その対極にある熱狂的な原理主義に向かい、ある種の安心感と目的感を得ようとすることがある。こちらはあまりに偏狭な確実性の主張を導き、想像力や同情心を殺してしまう。
ウォーノックは想像力に関して、自らが悪になる可能性を想像することに言及している。前編に書いたように、ウォーノックや同世代の哲学者たちが倫理の問題に目を向けたきっかけの一つはホロコーストである。この事実が明らかになったとき、彼女はこう考えた。自分にあの残酷さがないとは言い切れない。もし自分がその時そこにドイツ人としていたら、果たしてユダヤ人への非道な行いに加担しないだけの倫理性や意志の力を持っていたか断言はできない、と。このような非道に抗するために、倫理について真剣に考えなくてはならないし、その前提として、倫理が可能であると信じられなくてはならない。その一方で、自分が「善い」「正しい」と思うに至ったことや、そのような倫理観を持つ自分が間違っていたり、加害者にさえなり得る可能性を思うことができなくてはならない。
現代社会は冷笑的な相対主義と熱狂的な原理主義の間で揺れ動いている。相対主義的な考えは、他者に寛容であろうとすることの一つの帰結だが、一歩間違えば正しいことなどないと信じ、事実と誤謬の違いを認めない態度につながる。「自分は自分、他人は他人」と、関係を絶ってしまうことになる。他方、情報を得る手段やコミュニケーションの手段が変化した今日、相手との違いを強調し、自らの党派の主張に固執して、一見議論の形をとりつつも噛み合わないモノローグの応酬が増加し、自らの観点や主張にあったものばかりをメディアが供給する傾向が拍車をかけている。人と人とを繋ぐ手段は多様化し増えているはずなのに、他人との関係を絶つ傾向もまた強まっている。ウォーノックはこの両極を拒否し、いかにして他者と折り合いをつけながら共生するかを探る途を探ったのである。
ウォーノックの強みは独創的な理論的貢献よりもむしろ、社会問題をめぐる哲学的議論を整理し、要領よくまとめ、われわれが問題の所在を理解するのを助けてくれるところにある。
彼女はまた、男性が圧倒的に優位な時代と社会にあって自由や自律を実践した、女性にとってのロールモデルでもあった。オックスフォード大学のセント・ジョンズ・カレッジで教えていた1950年代、独身男性が当然とされたなかにあって例外中の例外、女性既婚者として育児をしながら職務にあたった。分析哲学・言語哲学が主流のイギリスにあって早くから実存主義を紹介し、その学問的妥当性には批判的であったけれども、ある意味において、実存主義が標榜するような、自分が何者になるかの自由を体現した人物と見ることもできる。
男女の別や生まれ落ちた境遇の違いを問わず、人はみな同様のことを学び、達成することができる。そして、われわれが相違を超えて、もしくは折り合いをつけてこの社会に生きることは可能であり、そうすべきである。こう考えるがゆえに、ウォーノックは人間の自由意志を否定する宿命論や、共有できる価値があることを否定する相対主義を拒否する。例えば相対主義を導く論を展開したニーチェ、フーコー、デリダ、ローティ、そしてフェミニズム論者たちが注目を浴びてきたのにはそれなりの経緯があるが、ウォーノックはかなり批判的である。この点は、現代においてはやや古くさい見方と思われるかもしれない。
また、ウォーノックは、古くは読者を納得させてしまうような鮮烈なエピソードを用いるサルトルの語りであるとか、より近年ではデリダのように伝統的な哲学的論述を意図的に避けるスタイルにはそっけない、いわゆる正統派の論者である。それゆえレトリカルな面白みには欠けるかもしれないが、しかし、およそ学問は、彼女のような堅実な考察を少なくとも経るものであり、その意味で彼女の主著と言って過言でない『考えるあなたのための倫理入門』は、倫理的考察への入門として最適である。アリストテレスやトマス・アクィナスやヒュームなどの古典的な議論と、科学の進歩や社会の変化によって生じた新たな問題をどのように統合し、今を生きるわれわれがいかに善く生きるか、生きるに値する人生とはどのようなものかといった大きな倫理的問題に取り組む術を、具体的で身近な問題を考え抜くことを通じて示してくれるお手本なのである。