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いま哲学史を読む意義とは?――『君ならわかる哲学』が語る哲学の核心

記事:春秋社

フィリップ・ファイトによるカジノ・マッシモの天井画「ダンテの部屋」の『神曲』「天国篇」第10歌(第4天)の場面。中央の一群の一番左がトマス・アクィナス、一番右の赤い服がシゲルスとされる。
フィリップ・ファイトによるカジノ・マッシモの天井画「ダンテの部屋」の『神曲』「天国篇」第10歌(第4天)の場面。中央の一群の一番左がトマス・アクィナス、一番右の赤い服がシゲルスとされる。

哲学という謎

 《「哲学」というのは、まったく奇妙な学問である。いや、「学問」と言えるかどうかさえ検討を要する問題であろうから、当面は「奇妙なもの」と言っておく方がよいのかもしれない。なにを対象にし、なにを主題にしているのかもよく分からない。範囲もはっきりしない。西洋という文化圏に固有のものなのか、もっと普遍的なものなのか。たとえば中国哲学とかインド哲学というのは本当に成り立つ概念なのか。それならなぜ日本哲学がないのか。なにもかもがはっきりしない。》

 こう述べたのは、日本を代表する哲学者のひとり、木田元氏であるが(『わたしの哲学入門』講談社学術文庫、15頁)、かの大御所をここまで当惑させるほど、「哲学とは何か?」という問いは難問である。しかもこのわからなさは、現代においてますます混迷を深めているように思われる。

 3世紀前半の哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスは、哲学には3つの部門があると言った。自然学と倫理学と論理学だ。

 《宇宙とそのなかにあるものとを対象にしている(哲学の)部門が自然学であり、人生とわれわれに関係のある事柄を扱っている部門が倫理学である。他方、これら両部門で用いられる議論を錬磨する部門が論理学である。》(『ギリシア哲学者列伝』上、岩波文庫、24頁)

 しかし、「宇宙とそのなかにあるものとを対象にする学問」といって現在真っ先に思い浮かぶのは、物理学や生物学をはじめとする自然科学ではなかろうか。論理学だって、現在では数理論理学や公理的集合論に発展し、もはや数学の1部門といったほうがよいようにも思われる。また、倫理学が扱うのは「人生とわれわれに関係のある事柄」というが、経済学や社会学・心理学といった、われわれの心や社会を扱う学問はほかにもたくさんある。

 それだけではない。最近「現代思想」という言葉がよく使われるようになった。主に近年のフランス系の思想を指すことが多いと思うが、その代表者たち、たとえばジャック・ラカンは精神科医・精神分析家、一世を風靡した構造主義のレヴィ=ストロースは人類学者だったのではないか。

 冒頭に引用した木田元氏は「一般に今世紀の哲学者たちは、奇妙な話ですが、自分たちのおこなっている思想的営みを「哲学」と呼ぼうとはしません。彼らが目指しているのは、むしろ「哲学の解体」なのです」と述べている(『反哲学史』10頁)。この発言が分析哲学をはじめとする英米系の哲学にも及ぶかどうかは気になるけれども、ともあれ、そうであればますます「哲学とは何か」、あるいは、「哲学とは何だったのか」を考えなおさざるをえないように思えてくる。

哲学史の困難

 だから「哲学史」なのである。ソクラテス以前から現代まで「哲学と呼ばれてきたもの」をたどりなおし、「哲学とは何か」を考えなおす試み。またひとり有名人を引用させてもらえれば、ヘーゲルも「哲学史の研究こそ即ち哲学そのものの研究だ」と言っていたりする(『哲学史序論』岩波文庫、82頁)。だが同時に、『西洋哲学史』を執筆したバートランド・ラッセルは次のように哲学史の困難を示している。

 《本書のような書物にあっては、選択の問題は非常に難しいものとなる。詳細に述べなければ、それは不毛で無味乾燥なものとなり、詳細に述べて行くと、たまらないほど長たらしいものとなる危険性がある。》(バートランド・ラッセル『西洋哲学史』1、みすず書房、ii頁)

 それもそのはず、歴史上に哲学者は数え切れないほど存在し、しかもプラトンやカントのような有力哲学者ともなれば、ひとつの作品のなかの、あるひとつの問題についてだけで、書物が何冊も書かれるような存在だ。詳しく述べていけば、いくら紙数を費やしても終わりがない。

 実際、世の中に哲学史や哲学入門の本はおびただしく存在するが、正直にいって、無味乾燥で退屈なもの、何だかとっちらかっていてまとまりを欠くものが多くあることは否定できない。ただの意見の羅列としての哲学史では、口の悪いヘーゲルに「全く無用な、退屈な学問」「阿呆の画廊」(『哲学史序論』岩波文庫、54頁)と言われても仕方がないだろう。

『君ならわかる哲学』の試み

 本書『君ならわかる哲学』がそのような困難を克服できているかどうかは読者の判断を俟つほかないが、克服のためのいくつかのくふうはすぐに見てとれる。

 まずは、そのざっくばらんな文体である。「まえがき」によれば、「看護や福祉など生身の人間の支援を学ぶためにやって来た学生たち」のための講義をもとにした「日頃の授業そのままのそれこそ言文一致体の哲学」であり、非常にくだけた、ときには偽悪的な言葉づかいさえもいとわない。好みが分かれるところかもしれないが、それは著者も先刻承知である。

 《深淵なものを期待する方からしたら不快に思われるかもしれないが、世の中には筆者のような下から目線の哲学者が存在することをこの機会に知っておいても損はないだろう。そして、いざ本書を手に取ったなら理解できないところがあっても、とにかく一気に読み通してほしい。》(同書、「まえがき」、iii頁)

 引用の最後にあるように、著者はとにかく全体を読み通してもらうことを重視する。どういう流れでその哲学が登場したのか、その思想が他の思想とどのような関係があるのかを、大づかみであっても知ってもらうことで「絶対に確実な知識を求めての人類の悪戦苦闘」としての哲学を全体として示したいということであろう。

キリスト教や中世哲学の重視

 この「哲学全体の流れを重視する」という点で本書の大きな特徴のひとつは、キリスト教や中世哲学の扱いにもあるように思われる。

 いまから思えば奇妙なことだけれど、少し前まで、中世はキリスト教に支配された暗黒時代で、ルネサンス期にギリシアの再発見があり、そこから哲学や科学があらためて発展したのであって、中世哲学は「針の先端に何人の天使がのれるか」といったどうでもいいことを、喧々囂々、重箱の隅をつつくような議論をしていた煩瑣哲学にすぎず、顧みる価値のないものという考えがまかりとおっていた。

 だから哲学の入門書も、古代ギリシア哲学が終わると中世はスキップし、デカルト以降の近代哲学が記述されるといったことも多かった。現在では中世も見なおされてきているが、それでも多くの入門書を見るかぎり、トマス・アクィナスなど少数の大物がわずかに説明される程度にとどまっているように見える。

 本書では、キリスト教以前の古代ユダヤ教からはじまり、グノーシス主義、ユスティノスやアレクサンドリアのクレメンスやアウグスティヌスといった教父、アンセルムス、アベラルドゥス、ドゥンス・スコトゥス、オッカムのウィリアムといった中世の思想家たち、最後のスコラ学者といわれるビール、ルターやカルバンといった宗教改革者まで、ずらりと並ぶ。フランシスコ会系哲学者の大物ボナベントゥーラや、ラテン・アヴェロエス主義者のブラバン(ト)のシゲルスにも1項目があてられるのは、何巻もつづくシリーズならばともかく、一巻完結の哲学の入門書としてはあまり例がないことに思う。

 しかし著者がキリスト教に好意的かといえば、まったくそんなことはない。むしろかなり否定的で、ドギツク感じられる批判もあるほどだ。であれば、キリスト教や中世哲学の重視は、人類のたゆみない営みとしての哲学の歴史には両者は欠かせないものだという認識の現れだろう。

 《各世代が科学において、精神的所産において現に有するものは、あらゆる前の世代が相共に蓄積してきた相続品である。》(ヘーゲル『哲学史序論』、41-42頁)

 哲学が過去からの相続品であれば、古代と近世のあいだの1000年にもわたる時期――近代以降の哲学の倍の歴史――を粗略に扱えるわけもない。そこにあったのは断絶ではなく連続であり、近代哲学も近代科学も中世哲学なくして成立しなかった。

 《西洋哲学が体系的な自然学をはじめに持ち得たのはまさに十三世紀のアリストテレス自然学の受容にはじまるのであり、ガリレイやデカルトは事実上この自然学の枠を前提して、はじめてそれの批判を行いえたのである。ガリレイの『天文学対話』はアリストテレスの天体論の全面的な再検討からはじめられており、……またデカルトもその自然学を体系化するにあたってはいつもスコラ自然学をいわば粉本としているのである。》(野田又夫「西洋哲学の特徴」『哲学の三つの伝統 他十二篇』岩波文庫、33頁)

 キリスト教を無視して哲学を知ることも不可能である。日本の哲学ファンは宗教に対して見て見ないふりする傾向があるのではないかと感じることがあるのだが、考えてみれば、デカルトもライプニッツもカントもヘーゲルもみんな神を論じている。無神論者であったラッセルもこう言っている。

 《われわれが哲学的と呼んでいるところの、人生や世界に関するさまざまな考えは、二つの因子の所産である。その一つは、受け継がれてきた宗教的、倫理的諸概念という因子であり、他の因子は、もっともひろい意味で「科学的」と呼びうる種類の研究である。……とにかくなんらかの程度で、この二つがともに存在していることが、哲学を特徴づけているのである。……本書でわたしのいう哲学とは、神学と科学との中間に立つあるものである。》(『西洋哲学史』1、1頁)

 また、先に名をあげたシゲルスなどは、その過激なアリストテレス主義で教会と対立した哲学者であり(シゲルスはずいぶん信仰に譲歩しているのだが、それでもその思想は弾劾され、宗教裁判で有罪になった)、彼のような哲学と宗教の葛藤を知ることも、哲学史の重要な一場面であろう。(ちなみにシゲルスは教会から弾劾されたにもかかわらず、ダンテの『神曲』では、ライバルのトマス・アクィナスとともに天国の第4天にいることになっている。天国篇第10歌。本記事冒頭の画像を参照。)

あとは自分で歩いていこう

 もちろん、キリスト教や中世哲学を重視するからといって、本書が近代以降の哲学を軽視しているといったことはまったくない。むしろ本書はデカルトの方法論的懐疑や身心問題にはたっぷり紙数を割き、近代哲学のテーマが何であるかを詳しく丁寧に説明してくれる。ライプニッツの予定調和などは時計の例で感覚的に納得するようにくふうされている。こうしたメリハリのつけかたも読者の理解をたすけるだろう。

 本書は、ヘーゲル以降、マルクス、ショーペンハウアー、キルケゴールと説明し、ニーチェで終わる。いや、ニーチェ以降の現象学や分析哲学といった現代哲学にも触れてはいるのだが、それはあくまでオマケ程度である。先に引用した木田元氏は、現代の哲学は「哲学の解体」をめざしていると言っていたが、その現代の哲学がはじまった地点、木田氏によると「こうした見方を最初に表立って提起したのは、実は十九世紀の後半に生きたニーチェなのです」(『反哲学史』12-13頁)という、その地点で主要部分は終わるのである。

 ここから先は、本書を読み通した読者ひとりひとりに任されている。本書で出会った哲学者について、さらに深く学ぶのもよし、ここから先の哲学の、あるいは現代思想のゆくえを追ってみるのもいいだろう。だが、ひとまずは、著者が「構想40年、執筆1年」のすえにまとめあげた「理性の力によって物の本質の中に分け入り、即ち自然や精神の本質の中に、つまり神の本質の中に分け入り、我々に最高の宝物、理性的認識の宝物を取り出してくれた英雄たちの画廊」(ヘーゲル、同前、39頁)を存分に楽しんでいただければと思うのだ。

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