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イギリスの哲学者メアリー・ウォーノックとは何者か? 『考えるあなたのための倫理入門』の著者が説く、倫理的思考の鍛え方・前編

記事:春秋社

メアリー・ウォーノック 写真はオックスフォード大学レディ・マーガレット・ホールの許可を得て転載する。(Photo by permission of Lady Margaret Hall, Oxford University)
メアリー・ウォーノック 写真はオックスフォード大学レディ・マーガレット・ホールの許可を得て転載する。(Photo by permission of Lady Margaret Hall, Oxford University)

*カギ括弧で示した直接引用は、『考えるあなたのための倫理入門』からのものである。

はじめに

 教育とは単なる物知りを作る知識量の問題ではなく、知識の広がりやつながりを理解し、適切な判断ができ、深く豊かな感性を持ち、他者への思いやりを備えた人を育てることだと思う。私は教育学者として、このような学びの鍵は、学び手の想像力を触発したり育んだりするところにあるのと考えているのだが、この想像力(imagination)という概念について歴史的に調べるなかでメアリー・ウォーノックの著作『想像力』に出会った。その後、ウォーノック自身が同概念を教育の最も重要な要素であると考え、なかでも倫理(道徳)の鍵は想像力にあると強く主張していることを知った。適切な考え方や感じ方をできることが決定的に重要なのが倫理の領域であり、このことは、学習指導要領が改定され、道徳が教科になり、「考える道徳」が唱えられる今日の日本で、特に重要な意味を持つと思われた。では、そのような示唆を与えてくれた哲学者ウォーノックとは、どのような人物だったのだろうか。

ウォーノックという哲学者

 メアリー・ウォーノック(1924-2019)は、その名を冠して「ウォーノック・リポート」と呼ばれる2つの報告書をイギリス政府の諮問に応じて書いたことで知られる。一つは特殊教育の分野で「特別な教育的ニーズ」の概念を提唱し(1978)、もう一つは生命倫理の分野でヒト胚研究の「14日ルール」を定めた(1984)。どちらも、イギリスのみならず世界各国でいまだに両分野における制度、立法、そして議論の基調となっている。ウォーノックはまた、末期の状態にある患者の安楽死の権利を認め、医師がそれを幇助するのを擁護する論陣を張ったことでも知られている。一般の人々には、こちらの知名度の方が高いかもしれない。

 彼女は象牙の塔にこもる学究タイプの研究者ではなく、パブリック・インテレクチュアルと呼ぶのがふさわしい哲学者である。一代貴族としてイギリス上院議員を長く務め(1985-2015)、さまざまな政府諮問委員会に名を連ねた。夫でオックスフォード大学の副総長(実質的な総長)を務めた哲学者のジェフリー・ウォーノックらとBBCのラジオ講座で哲学を論じ、オックスフォード女子校の校長やケンブリッジ大学ガートン・カレッジの代表を歴任するなど、教育にも長く携わった。1960年に出版した倫理学の教科書『二十世紀の倫理学』(保田清訳, 法律文化社, 1979)を嚆矢として倫理学や実存主義の分野の著作で知られるようになり、その後、1976年の『想像力』(髙屋景一訳, 法政大学出版局, 2020)をはじめ、教育、宗教、所有権など哲学的考察を要するさまざまな問題についての著作を発表した。

 まさに現代イギリスを代表する哲学者であるにもかかわらず、日本での知名度は高いとは言えない。しかし、倫理学(道徳哲学)の訓練を受けた哲学者として、彼女はわれわれが直面する倫理的問題について重要な論点を提供した人物であり、その貢献は色褪せるどころか、ますます重要性を増しているように思われる。ウォーノックは私が邦訳出版した『想像力』に新たな序文を書いてくれたのだが、残念ながら、日本の書店に並ぶ半年ほど前に亡くなってしまった。しかしこのまま忘れられてしまうには、あまりにも惜しい哲学者である。今回翻訳した『考えるあなたのための倫理入門』は、倫理を主題としているが、倫理にとどまらない、ウォーノック哲学の全体像が最も要領よくまとまっている好著だと思う。本書の内容は後編にまわして、この前編ではウォーノック自身についてもう少し書いておきたい。

20世紀のイギリス哲学と哲学者の課題

 ウォーノックがオックスフォード大学の学部課程で学んでいた1940年代前半、哲学はケンブリッジ大学を中心とした論理実証主義や、それへの応答としてオックスフォード大学で盛んになった日常言語学派の影響が強く、言語分析・概念分析をその主たる任務と自認していた。アルフレッド・エイヤーのような哲学者たちが、論理または経験によって真偽を判定できる事実問題と、そうすることのできない価値問題とを峻別し、哲学は前者にのみ関わるもので、後者については口をつぐむべきだと唱えていた。ある人の行為が盗みにあたるかどうかは事実を確認できる問題だが、盗みはいかなる状況においても許されないのかというような倫理的な問題は、証明も反証もできない価値の領域に属する。価値の問題は、突き詰めれば個人的な好みや嫌悪という感情の問題であり、学的な厳密さをもって追求できるものではないゆえ、倫理(道徳)は、まともな哲学者が関わるべき問題ではないという風潮が強かった。

 しかし、その一方で、当時は人倫を脅かす大問題が世界を不安に落とし入れていた時代でもあった。第二次世界大戦、とりわけ人々にショックを与えたのは、ナチスによるホロコーストである。哲学者がこの問題に口をつぐんだままでよいのかという疑問が、一部の若い哲学者たちの胸に澱んでいた。彼らを代表するのが、当時やはりオックスフォードに在籍していた、ウォーノックより数年年長の女性哲学者たちである。ウィトゲンシュタインの英語圏への紹介者として有名なエリザベス・アンスコム、小説家としても有名なアイリス・マードック、マイケル・サンデルの講義で有名になった「トロッコ問題」を考案したフィリッパ・フット、そして日本ではあまり知られていないものの、動物行動学などを取り入れた観点から倫理を考えたメアリー・ミッジリーの4人である。当時のオックスフォードは、偶然にも戦争の影響で男性が減り、その穴を埋める形で女性の進学機会が増大していた。男性哲学者たちが、言語分析の手法によって、何が哲学が取り扱うべき問題かを検討するという「高次の」議論にいそしんでいたのに対して、女性哲学者たちは「易しい」とされ、リチャード・マーヴィン・ヘアのような例外を除いて男性哲学者が顧みなかった倫理学に取り組んだ。ウォーノックはこれらの女性哲学者全員と親しかったわけではないが、それでも、例えばアンスコムにウィトゲンシュタインの『哲学探究』の翻訳草稿を見せてもらうなどしている。ウォーノックも言語分析を主とする当時の哲学を学んだが、倫理学により強く惹かれ、善とは何か、そして倫理的・社会的問題において善はどのような実践的な意味を持つかという問題に特に関心を持った。そして、哲学的考察を抽象的な言語分析や議論の整理の段階にとどめず、具体的な問題に実践のレベルで取り組み、専門家と一般大衆双方に向けて積極的に発言した点において、独自の貢献をした。

ウォーノックとサッチャー

 歴史的なエピソードをもう一つ紹介しておこう。
ウォーノックと同時期に、のちにイギリス首相となるマーガレット・サッチャー(1925-2013)がやはりオックスフォードで学んでいた。もっとも、おそらく2人は在学時に面識はなく、専攻も一方は古典学(オックスフォード大学の中心的な課程で、ギリシャ語、ラテン語に加えて歴史と哲学を学ぶことで一般教養と思考力を鍛え、社会のリーダーとなるジェネラリストを養成してきた)、他方は化学で、卒業後、サッチャーは企業勤めを経てすぐに政界に入った。この2人を結びつけたのが、サッチャーが教育長官時代に召集し、ウォーノックが長を務めた特殊教育に関する委員会である。ウォーノックの伝記を書いたフィリップ・グラハムによると、この2人はまだ男性が圧倒的に優位な社会にあって各々の道で女性のパイオニアとして頂点に上り詰めた点で共通するとはいえ、その遺産は対照的である。やや公平さを欠くかもしれないが、サッチャーの政策が経済的な効率性を至上命題とし、社会的弱者への想像力や共感に欠け、社会の紐帯を断ち切るもので、貧富の差の拡大を後世に残したのに対して、ウォーノックは影響力や知名度ではサッチャーに及ばないものの、障がいを持つ人や不妊に悩むカップル等の抱える問題に対処する施策を提案することを通じて、思いやりのある社会を築くのに貢献したと言える。

良識と思いやりのある社会

 ウォーノック独自の、そして今日に至る影響力を持つ業績が、先にも述べた、特殊教育と生命倫理に関する委員会の長としてまとめた報告書だろう。前者はそれまで「教育不能」とされていた、障がいを負った子どもを通常の教育の対象とする「特別な教育的ニーズ」の概念を提出し、現代で言うインクルージョンないしインテグレーションの先駆けとなった。この報告書の理念と実践的提案は、1981年の教育法に盛り込まれた。

 この概念を思いつくきっかけとなったイメージについて、ウォーノックはこう述べている。「教育とはすべての子どもが歩かなくてはならない道であり、しかも、たどり着く先は同じで、そこへといたる道はたった一本しかない……。その道の終着点には、共通のゴールがある。それは、この世界を理解し、楽しみ、コントロールできる力を与えてくれる自律性である。この道を躓くことなく楽にたどる子どもがいる一方、越え難く思われる困難にぶつかる子もいる。理解し、楽しみ、コントロールできる態勢が完璧に整って世に出る子もあれば、共通のゴールに向けて進んだのかどうか心許ない子もある。しかし後者の場合、その一歩一歩が意味を持つのである。このような子どもは困難を一つ一つ乗り越える手助けを受けなくてはならず、話すことのような他の子なら何の苦もなく学べるようなことをするのに助けが必要であることが、『特別なニーズ』の概念を生み出すことになった。」

 生命倫理についての検討は、1978年の体外受精児の誕生を直接のきっかけとし、不妊治療にも応用できる技術の開発に適用できる医療研究をコントロールするためのものである。これは、人の生と死をめぐる問題という意味では安楽死や尊厳死と根は同じだが、現象としてははるかに新しい。母体の外で胚が生存可能になるという科学技術は極めて新しいものであり、ほんの数十年前にはこの問題は存在しなかった。しかしヒト胚を実験に使用しその後処分することが認められるか否か、また、認められるのであればどの時点までかという問題は、どの時点からヒト胚を単なる細胞の寄せ集めではなく人格ないし魂を持つ個人と認めるかという、古くからの哲学的問題との連続性を持っている。この問題に科学的、法律的、そして哲学的見地から「14日ルール」、すなわち実験の目的で採取されたヒト胚を14日を超えて保存してはいけないという一定の枠組みを設定することが、一方で当該の医療技術の利益を受ける人たちのために必要であり、他方で生命の尊厳を脅かす事態を招かないための規制を設けるうえで妥当だと結論づけた。

 哲学という学問には、議論を続けることに意義を見出す側面があるのだが、これらの報告書では、仮に後で覆されたり修正される可能性があるとしても、一応の結論を出した。哲学と法律、私的な良心や価値観と公的な政策や法律との折り合いをつけたところに、単なる象牙の塔の学者ではないウォーノックの面目躍如といったところがある。

 ウォーノックはこの社会を、あらゆる人にとって生きるに値する、思いやりと良識を有する社会にするものは何か、また、それはどうしたら達成できるかという問題に哲学の訓練を背景に取り組んだ。さまざまな経験を経て彼女が最後に述べるのは、教育の重要性である。なかでも想像力の涵養が大切だと言う。後編では、この連関についてウォーノックの思想がもっとも体系的かつコンパクトにまとめられている、『考えるあなたのための倫理入門』の具体的な内容を紹介する。

(後編はこちら)

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