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『論理哲学論考』の謎を解く  飯田隆  ――大谷弘『入門講義 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』』書評

記事:筑摩書房

大谷弘『入門講義 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』』(筑摩選書)書影
大谷弘『入門講義 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』』(筑摩選書)書影

 大谷弘氏の近著『入門講義 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』』は、よくできたミステリを思い起こさせる。謎が謎を呼ぶ展開、それとともに着々と積み上げられて行く手がかり、そして最後に明かされる意外な真相と、必要なものはすべて揃っている。正直なところ、私もこうした展開になるとは予想できなかった。『論理哲学論考』(以下では『論考』と略する)をこれから読もうというひとにはもちろんだが、それにもまして『論考』を少しかじったことのあるひとにもぜひ、このスリルを味わってほしいと思う。

 いまからちょうど百年前にイギリスで出版された『論考』が、20世紀の哲学の方向を決めたことは、たしかな事実である。だが、それだけに、この本の異様さは際立っている。これを「世紀の奇書」と言ったひとの気持ちもよくわかる。独特な仕方で体系的な番号が付された文章の集積から成るという、この本の外見自体がまず異様である。第二に、この本が扱っている主題ということがある。それは、世界や事実についての、まるでご託宣のような文章から始まり、論理に関する記号が散りばめられた章句を中に挟み、死や神までが言及されて終わる。そのひとつひとつについてならば、それを主題として書かれた本は想像できる。だが、『論考』には、このすべてが含まれている。そんなことがどうしてできるのかと思うのは不思議でない。

 それどころか、『論考』が全体として何を伝えようとしているのかという点に関してさえ、解釈者の意見は大きく対立している。対立の原因は、『論考』の最後から二番目の命題(6・54節)で、「この本の著者を理解するには、それを構成する命題を通り抜け、その上に立ち、乗り越え、最終的にそれが無意味であると認識しなければならない」と言われていることをどう解釈するかにある。『論考』を構成する命題は、それ自身にしたがえば「無意味」であるかもしれないが、重要な真理を表していると解釈するのが伝統的だったが、20年ほど前から力をもってきた「断固読み」(大谷氏は「決然とした解釈」と言う)によれば、6・54節は、断固として文字通りに解釈されなければならない。『論考』の命題は端的に無意味なのであり、読者のひとりひとりが、そのことを認識するようにさせるというのが、『論考』の真の目的だということになる。

 大谷氏の今回の本は、このどちらともはっきり違う『論考』の読み方を提出している。そこに至る道筋はなかなかよく考えられている。『論考』の番号にしたがって進むという、入門講義の体裁を守りながら、『論考』の各所に潜んでいる謎が順番に取り上げられるが、その解決はすべて、より大きな謎の解決に俟つとされる。『論考』が全体として何を伝えようとしているのかということこそが、この大きな謎である。こうして、究極の謎の解決への期待が高められるとともに、解決のための手がかりが注意深く提示される。

 真犯人は明かさないというのが、ミステリを紹介する際のエチケットであるのにならって、答えが何であるかを明かすのは控えよう。「なるほど、その手があったか」というのが、それを知ったときの私の反応だったとだけ言っておく。それは、『論考』にまつわるさまざまな謎を解くのに有効そうであるだけでなく、ウィトゲンシュタインの後期の哲学と『論考』とのあいだの断絶と連続性をうまく説明してくれる。もちろん、『論考』という本の性格上、いろいろと疑問は残る。本書を読み終えた読者は必ず『論考』そのものにあたってみようという気になるだろう。

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