文系・理系問題からリベラルアーツへ 『自由に生きるための知性とはなにか――リベラルアーツで未来をひらく』より
記事:晶文社
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これまでの熊谷先生、上田先生の発表¹⁾ がなんだかもう本当に刺激的で、いろいろなことを考えさせられています。上田先生からリベラルアーツは文系だけのものではなく理系のものでもあるというお話がありましたけど、そもそもそういう話が出てきてしまう背景を考えていきたいと思います。
まず最初に、なぜリベラルアーツに関心が集まっているのかということから考えてみます。こう問うのは、最近少し驚いたことがあったからです。2018年に『文系と理系はなぜ分かれたのか』というタイトルの本を出版したんですが、そのとき、三つの世界の方々との接点が生じました。それで、みんな同じことを考えているなと思ったんです。
一つは障害学に関わる方々で、『知のスイッチ――「障害」からはじまるリベラルアーツ』というタイトルの本を送っていただきました。この本の内容は、熊谷先生の話に近いものです。
それから二つ目に、ビジネス・産業界に関わるような人たちがリベラルアーツにすごく関心を持っていました。それも管理職に手が届くような世代の方々が、非常に関心を持っているということでした。
三つ目は、上田先生のお話にあった、理工系研究者の卵や、理工系のこれから社会に出て行く人たちへの教養教育の問題、それも専門を選んだ後の教養教育の問題を考えている方々です。
三つの違うように見える領域の人たちが、リベラルアーツというキーワードのもとに結集しているように思えた。そこで気付いたのが、世界はだんだん複雑になり、不確実さを増している感覚がまずあって、その中で多くの人がとにかく対話をしていけるようにしたいと思っているのではないか。ある種の倫理的なアプローチが必要とされているのではないかということでした。少し繋がりが見えにくいかもしれませんが、このことを念頭に置いて話していきたいと思います。
実は、何を教養教育とするかはずっと論争の的でした。たとえば「実用主義」か「教養教育(liberal education)」かという問題。要は、何かに特化した能力を持った職人のような人を育てるのか、それとも幅広い知識を持った人を育てるのかという対立軸。これは19世紀になされていた議論です。
それから博識か、もしくは雄弁か。「百科全書的知識」か「修辞学²⁾」かということです。前者はすごく物知りな人を指し、後者は話すのが上手な人です。みんなが知っていなければならない知識をきちんと教えるべきか、あるいは自分の考えを述べられる人を育てるべきかが対立します。
そしてここからが話のテーマに関わるのですが、「自然科学」か「人文学」かの対立があります。これは、自然科学の内容をなるべく教養教育として教えるか、もしくは人文学を教えるかということです。人文学という言い方には特殊な意味があって、とくに19世紀の西洋では、古代ギリシャ・ローマの古典を読めて、きちんとした形で議論できる人がイメージされています。いわゆる文系という言葉よりは少し狭い意味になるのですが、いずれにせよ、おおよそ文系か理系のどちらを重視するかを問うような対立があったと捉えられます。
20世紀以降、とくに21世紀になって争点化されたのが、誰にとっての教育か、誰が包摂される知識かという点です。たとえば、マジョリティ、マイノリティ、ジェンダー、文化、宗教に関わる問題ですね。そして、文系・理系をどうするかも大事な問題です。というのも、文系・理系問題と、誰が包摂される知識かは、結びついている部分があるからです。
そもそもこの文系・理系の分け方について、今日は一つ言いたいことがあります。本を書いたときにはあまり意識していなかった論点なんですが、文・理で分けたとき、その分け方にはあまり意味がないとか、それは数学だけの問題で、数学のできる人が理系で、そうでない人が文系だと言われがちです。でも、もっと根源的な分類の原理が実は過去から存在していて、そこに一本筋が通っているのではないかと最近考えるようになりました。
その原理というのは、自然と人間を区別するものの見方です。とくに西洋の世界やキリスト教では、長い間、自然と人間を分ける見方が存在してきました。その分け方自体が問題という側面もありますが、いずれにせよ、PHYSICAL(モノ、自然)と言ったときの自然は、モノとして客体化されます。それと主体としての人間の精神とは、非常に強く二分されます。この分類が、文系・理系の分け方に影響しています。たとえば自然諸科学のことを“Physical science”と言いますし、今の文系にあたる人文社会科学のことを“Moral science”と呼んでいたことがあるわけです。
モノを探求することと人間を探求することを全く同じ方法ではやれないという感覚があったのではないか。つまり、学問にはどうしても複数の方向性がある。たとえば、一方では、神様のように自然やモノを正確に把握したいと考えている。もう一方で、神様がこうしろと言ったとか、聖書にこう書いてあるからこう生きなければならないといった、熊谷先生がおっしゃったような、押し付けられた大きな物語では生きたくないと考えている。
前者はおおよそ自然科学が取る方法論ですよね。人間はバイアスの源泉だから、きちんと正確に自然を把握するためには、たとえば望遠鏡などの観測機器を使わなければいけない。そして個別性には意味がなくて、大量に観測して一般化することが大事である。いわば抽象化が非常に大事にされる学問です。
後者は、物語的というか、人間は価値の源泉であって、だからこそ一人一人の人間の経験には意味があると考える。AさんとBさんは取り換え不可能ということですね。その人のエピソード的なものに意味がある。たとえば歴史の研究では個々のエピソードが大事なので、無闇に大量観察しても意味がないわけです。また、価値ということでいえば秩序の創造という営みもあります。人間は主体的に生きて、世界の秩序を作り変えることができるわけです。実際に人間は平等であるという理念のもとに秩序をつくってきたのが近代社会です。
モノに対する知へのアプローチと、人間としての知へのアプローチをどうしても分けたくなるような感覚があるのではないか。それが今の文系と理系の分類に繋がっていると思っています。
残念ながら、最近は文系が不利な立場に立たされています。上田先生の話があった後にこの話をするとやや違和感を持たれるかもしれませんが、自分のエピソードを語ることがすごく軽視されたり、文系学部はいらないのではないかと言われたりする社会に生きている。
このようなことをあえて言うのは、20世紀後半に、いろいろな分野がジェンダー化した、あるいは階層化したということがあるからです。どういうことかを説明するため、とくに研究が多いジェンダーの問題からまず紹介します。
20世紀半ばに共学となった大学が増えましたが、女性やマイノリティの進学が増えた分野と伸び悩んだ分野に分かれたということが観察されています。たとえば理工系分野、とくに数物系は顕著らしいのですが、今でも女性や非白人、セクシュアルマイノリティがやや少ない傾向にあると言われています。
もともと大学に女性はいなかったわけですが、女性が進学し始めた当初は、意外とどの分野にも均等に女性が分布していた。少ない中でも数学を専攻する女性が意外といたんですね。しかし20世紀後半に入って、徐々にその割合が減っていきました。近年どのような人たちが理工系にいかなくなるか、とくに女性はどうなったかを調べた研究によって、才能が必要といわれる分野ほど、マイノリティや女性が自信を持てず進学を控える傾向にあることが分かってきました。
20世紀後半以降のリベラルアーツの変化は、やはり他者と出会ったことにあると思います。つまり、なんだかんだ言って20世紀後半には、マイノリティや女性が大学の世界に参入していったわけです。そこで誰にとっての教育かが問い直されました。
たとえばアメリカのキャンパスを中心に、なぜ古典教養として死んだ白人男性の本ばかり読まされるのかという批判が起きました。今でもヨーロッパのキャンパスでは話し合われ続けていて、ひょっとしたら日本でも東アジアでも何か起きているかもしれません。
いずれにせよ、人文学がそもそも問い直しを受けています。たとえばマイノリティ、先住民や植民地支配の問題、女性差別や障害者差別の問題など、これまでの古い人間観から排除されてきた人たちを包摂していくような動きがあります。その上で、人々の中にある根源的な違い、経験の多様性を前提に、異なるもの同士をどう対話させるか、繋いでいくかが課題になっていると理解しています。
今、学術の分野では「共創」が目指されていて、たとえばシティズン・サイエンスといった取り組みがあります。有名なものは理系の例ですが、放射線レベルを市民が生活者の目線から測定するなど、大学や行政の専門家とは違う視点から市民が研究を行っていく事例があります。このように専門家と市民の垣根が低くなっている状況があるのです。ただし、まだ研究評価上の位置付けは難しいという現実はあります。
最後に、リベラルアーツ教育のこれからの課題を提起させていただきます。
やはり対話と、対話のために必要な倫理的な姿勢への教育が求められていると感じています。ソフィスト³⁾ のように話すことだけがうまい、真理や正義には関心がなくて、ただ相手を打ち負かすような演説ができる人間を生まないためにはどうすればいいのか。
それから、おそらく熊谷先生の話の中で答えが出ているかもしれませんが、自由なはずの対話が人を傷付けることがあると思います。つまり、対話が課題を生んでしまう。とくに競争の激しい場面で生じる「競争と共創のジレンマ」といった問題があります。対話をしましょうと言ってやって来る人たちが、ときに非常に危険な人たちであったりするからです。対話の押し付けや、対話の場が危険になることを避けるためにはどうしたらいいのか。
以前にあった事例ですが、理工系の研究者の人たちが人文社会系の研究者の人たちに、一緒に研究をやりましょう、対話をしましょうと言ってやって来たけれど、どうも人文社会系の研究者の側にはむこうの研究のために奉仕させられているように感じられる状況になっていた。こうした安全に話せないと感じるような場が存在するときにどうすればいいのか。つまり、支配的な人や分野、組織が誰かを搾取する構造を生まないためにはどうすればいいのかという問題が依然として残っています。熊谷先生の話にあった、たとえば自助グループの対話であるとか、攻撃的にならないための場の設定・設計といった解決策がすでにあるのかと思いますが、このような問いを最後に投げたいと思います。
(構成:木谷恵)
推薦図書
隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社新書、2018年
エドワード・W・サイード『知識人とは何か』平凡社ライブラリー、1998年
クリストフ・シャルル、ジャック・ヴェルジュ『大学の歴史』文庫クセジュ、2009年
J・S・ミル『大学教育について』竹内一誠訳、岩波文庫、2011年
嶺重慎、広瀬浩二郎、村田淳編『知のスイッチ――「障害」からはじまるリベラルアーツ』岩波書店、2019年
註
¹⁾ 熊谷晋一郎「わたしを発見する知――リベラルアーツと当事者研究」、上田紀行「東工大リベラルアーツの挑戦」、立命館大学教養教育センター編『自由に生きるための知性とはなにか――リベラルアーツで未来をひらく』晶文社、2022
²⁾ 「レトリック」とも言われる。もともと弁論術を指す語で、アリストテレス(前三八四年〜前三二二年)が体系化。人を説得することを目的とし、法廷や集会などの場で用いられ、適切な表現や配列についての理論が展開された。
³⁾ 民主制が発達していた前5世紀頃のギリシアに登場した、職業的教師のこと。アテナイの青年たちに弁論術や修辞学などを教えることで人気を博した。後にプラトン(前427年〜前347年)らにより「詭弁家」と批判され、弁論術に長けてはいるが、社会を堕落させる不道徳家と位置付けられることが多い。しかしながら一方で、その実践と理論は後世に大きな影響を残しており、再評価もされている。
(隠岐さや香「文系と理系の歴史から考える、リベラルアーツのこれから」『自由に生きるための知性とはなにか――リベラルアーツで未来をひらく』より抜粋)