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<大学から社会へ2018>学術書を読む――『専門』を超えた知を育む

左から、三浦衛さん、三中信宏さん、鈴木哲也さん

鈴木 年間8万〜9万点くらいの本が出版され、大学図書館の年間受入数では、その10分の1くらいが学術的な内容です。読みたい学術書を選ぶのは研究者であっても簡単ではありません。特別な意味づけと方法論が必要です。まずは、専門外の学術書を読むことについてどういう意味があるのか、お二人からお話しいただきたいと思います。

三中 私の専門は生物統計学なので、統計データ解析の本を書いていますが、生物の分類学、進化学にも関心があります。学問は一朝一夕で成り立っているわけではありません。特に、生物学は過去200年、300年のタイムスパンで成り立つので、1世紀、2世紀前の文献を当たり前のように引用しています。同じ理系でも、分野によって見ているタイムスパンは違います。例えばバイオテクノロジーは5年経つと昔の論文だから読む必要がないと言われますが、科学史や科学哲学などは自分のすぐ隣にあります。

鈴木 知の世界が自分のすぐ横にあるというのは面白いですね。同じことを三浦さんは編集者として読み手の立場で感じているのではないですか。

三浦 私は人文系の学術書の編集が仕事です。学術書を読むきっかけ、あるいはエンジンは、子供の時から2つありました。

まずは「寂しさ」。「寂しい」を秋田弁で「とじぇね」と言います。私は秋田で育った“とじぇねわらし”でありました。その私が授業で先生のお話を聞く時間だけは、寂しくなかった。特に学術書は、先行研究を土台にしながら新しい知見を明らかにしていく。だとすれば、“学術書ほど大いなる物語はない”という気がします。その中で自分も生かされている、今日1日もその物語の中にある、と思うと寂しくなくなります。

 もう1つが「違和感」です。小さな工場勤めの母は、相当の年数を働いたにも関わらず、退職金が90万円でした。大学生だった僕は90万円をもらって喜んでいる姿に驚きました。当時、退職金は2000万とか3000万と言われていた時代です。その現状に違和感をもち、資本主義社会はどういう構造になっているのか知りたくなって自分なりに学術書を読みました。

鈴木 お二人に共通するのは、「知」は生きていることそのものだということですね。とはいえ、何かを学びたいけれど、どう学んでいいのかを知るのは難しい。学術書の選び方のコツはあるのでしょうか。

三中 私は本を書くのも好きですが、読むのはもっと好きです。専門的な研究分野なら、1本だけ感度の高いアンテナを掲げれば、最新の専門書と学術書が引っ掛かります。ただ、それでは周辺までは見えてこない。そこで、精度の低いアンテナを広く何本も立てておく。すると、リアルな書店に行って全然関係なさそうな書棚の間を歩くと、ピピッとくる本が「おい、これ読め!」と語りかけくるのです。そこだけオーラが立ち上る。なので、私は電子書籍を読みません。ただ、ネット書店は使います。関連付けられた本の中から、偶然の産物があります。アンテナをどうはるかによって、本の見つけ方、あるいは本から選ばれることが変わってくると思います。

三浦 学術の世界は先行研究があって研究を積み上げていくのですが、大いなる物語に圧倒されることがあります。例えば、吉川幸次郎さんの『杜甫詩注』。筑摩書房で1977年から第5巻刊行され、死後、興膳宏さんが改訂加筆を施し、岩波書店から1巻から10巻まで出ているのですが、それでも吉川さんが構想したうちのまだ半分なのです。50代で亡くなった杜甫の詩を日本の風土の中に置き換えるということを100年のスパンで考えている。そういう大きな物語を探します。

鈴木 学術書といってもカテゴリーはたくさんあります。そこに共通するものはないか。先ほど三中さんのお話の中にあった、歴史的な事柄を知るのが重要だというご指摘は、学術書を読む際の第1のポイントだと思います。

三中 いまの理系の研究者は基本的に科学史や科学哲学を勉強する場がありません。専門課程では目の前の実験や観察に手一杯で、「科学史がこの実験に何の関係があるのか」なんて言いだす人も少なくないのです。でも、自分がやっている分野がそもそもどこから発生して、なぜ今こうなっているのか、ということを考える必要はあると思うのです。

三浦 人文系の本で言えば、小西甚一さんの『日本文藝史』(講談社)。大いなる歴史書で、豪華客船に乗って文芸史の航海しているような学術書です。そこには、水際のところで海面に指先でスッと触れるような1行が入ってくる。学術書の参考文献や多くの“注”です。これが面白い。研究の積み重ねにおいて、研究者個人の思いや、生きている時代が伝わってくることがあるからです。学術書を通じて著者と対話しているような気がします。

鈴木 私は科学史が好きです。人間が今に至った過程の「道筋」がわかります。最先端の物理学を知るには非常に高度な数学のトレーニングを受けなければできませんが、科学史は“人はなぜこういうことを考えてきたのか”ということを丹念に歴史から積み上げているので、必ずしも高度な数学が解けなくても大体わかる。科学史や研究史の本というのは、研究者を目指さない人にも役立つ、導入しやすい学術書ではないかと思います。

 それと「論争」。三浦さんから著者と「対話する」という話が出てきましたが、私自身、本を読んでいて面白いなと思うのは、自分とは違う立場を発見できる、ということですね。世の中は見方の違いで決定的に認識が違う。いたずらに対立するのでなく、互いの違いをどうすれば架橋できるか、学術書を読むときのポイントではないかと思います。

三中 自然科学の研究だと、データがあれば論争はすぐ解決できるのではないかと言われるのですが、全然そんなことはありません。それをどう解釈するかで延々と論争が続く。理系の研究では論争が生じないというのは浅はかです。例えば、生物の種。スピーシーズとは何か、ホモ・サピエンスとは何か、という定義の問題を出されると、1世紀以上解決しません。概念的あるいは哲学的問題がある。どういう風に論争が戦わされてきたのかを繰り返し見ていくことが重要なのです。論争は、ある分野そのものを理解する際に不可欠で、視野を広く取らないとわからないことも多いのです。

三浦 『日本文藝史』の場合は、今との対話です。雅と俗で時代時代を区切って書いている。今の自分とどういうふうに関係してくるのか。それも1つの対話かなと思っています。以前、鈴木さんから「学問がタコツボ化して近視眼的になっている」という話がありましたが、それを超えるには、今との対話を常に考える必要がある。これは文系理系にかかわらず大事なことではないかという気がしています。

鈴木 「データがあれば論争はすぐに解決するというのは誤りだ」と三中さんがおっしゃったように、社会も同じだと思います。見方が違うと他の考え方もあるはずですが、例えば、国会討論は討論になっていない。対話するということは、相手の視点から見ると違うかもしれない、と一回振り返って見ること。そういう点でも、学術書を読むことはいまの社会のあり方を考える上でもすごく意味があると思います。

 ところで、私はよく「学術書は難しいから、読んでわからなかったらどうしますか」という質問を受けます。お二人も当然あると思うのですが、どうされていますか。

三中 途中でちょっとキツイと感じた本は、一旦やめて塩漬けにします。本棚の中途くらいのところに差し込んでおき、のぼりをたてる。読めないのは、自分の持っている問題意識や事前知識といったものが足りないから。熟成してからまた読みます。

三浦 学術書の場合、読んでわかりやすいものはほとんどない。だけど、わからないけど面白いと感じるものはある。別の要因が入って来た時に、それが“補助線”になって面白くなる日がきっと来ると思って読んでいます。全部が全部、そのあと面白かったか、腑に落ちたかと言われればそうではないですが、まだその時が来ていないのかもしれないし、その時を待っているうちに死ぬかもしれないわけですが(笑)。

鈴木 学術書がわからないというとき、色々な要因があるかと思います。自分のトレーニング自体が欠けているから理解できないこともあれば、三浦さんが“補助線”とおっしゃったように、視点の中に何かを足すことで腑に落ちることもある。いずれにしても、“何かが欠けている”と自覚することは大事なことですよね。三中先生のように、本棚に塩漬けにしておき、あとで欠けた何かが埋まった時に、さっと道が開けるかもしれない。わからないことを恐れないで欲しい。学術書という小難しい本を作っている、また、書いている立場からすると、そう思います。

 もう一つ、ぜひ皆さんにご提案したいのは、わからない時に“人に聞く”、あるいは“仲間と読む”ということです。わかる人がいれば、わからない人に説明してあげるという丁寧なコミュニケーションが、今の世の中少ないのではないか。読書は個人的な行為ではありますが、わからない時には聞くというのも1つの方法だと思います。「この本はわからないけど面白い」ということを広げていくことで、社会が知を共有していくことができるのではないかと思うのです。