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「奇妙な」子ども時代 左翼だった父が無言で託したものと繰り返し読んだ本:私の謎 柄谷行人回想録②

記事:じんぶん堂企画室

幼少期の柄谷行人さん(柄谷行人さん提供)
幼少期の柄谷行人さん(柄谷行人さん提供)

――柄谷さんは1941年8月6日、兵庫県尼崎市のお生まれですね。

柄谷 当時は、川辺郡園田村ですよ。そして、その中の森という地域です。代々の地主で農家ですね。先祖は江戸時代に菜の花油で材をなした豪商だったらしい。いまも残っている実家の建物は築150年くらい。蔵はもっと古い。代々「善右衛門」と名乗っていて、近所では「ゼオンさん」と呼ばれていましたね。祖父は善治郎、父は善之祐。それで僕は善男(よしお)。20代でペンネームとして行人を名乗ったから、もう書類上の名前だけだけどね。
森地区には、園田村全体の村長もやっていた中村という家と、柄谷の家と二つが古くからあった。その中村という人が中心になって、僕のじいさんや地元の人を集めて、女学校を作ったんですよ。「園田学園」です。僕の姉なんかは、戦後にそこに行っていました。

――おじいさんは、地元の名士という感じですか。

柄谷 怒りっぽい人だったけど、人情には厚くて、近所では慕われていたと思う。朝鮮人の面倒もみていた。僕が小学校4年生くらいのときに、心臓発作で目の前で亡くなりました。目撃したのは、僕だけ。

――それはショックですね。

柄谷 いや、あんまり。もともと心臓が悪くて寝ていたからね。彼が死んだあと、僕がまったく平気そうだったからか、「かわいがっていた孫に看取られて幸せだった」とか言われていたようですが。

《園田村は1947年に尼崎市に併合された》

柄谷 僕の親父は尼崎との統合に反対だったの。そのために新聞社を作ったぐらいです。僕は父親に連れられてあっちこっち、自転車で回った。5歳だから、よくわからずに乗ってただけです。あとから考えると、父親は尼崎市よりも伊丹市に入るほうがいいと思っていたらしい。尼崎市はもともと、大阪とつながる工場都市です。今も大阪市と市外局番が同じだから。一方、伊丹のほうは、大阪梅田とは別の意味で発展してきた所です。つまり西国街道だったから。

――京都から九州へ行こうと思えば大阪を通らずに伊丹を通るわけですね。

柄谷 だから、伊丹には独自の文化があったんですよ。まず、伊丹で発展したのは酒造です。酒造といえば、灘が有名ですが、本来、伊丹から影響を受けたものです。しかし、そういったことは、大阪中心に見ると消えてしまうイメージですよ。

左翼だったことを言わなかった父

柄谷さんの父・善之祐さん(柄谷行人さん提供)
柄谷さんの父・善之祐さん(柄谷行人さん提供)

柄谷 父親は1910年くらいの生まれで、平野謙(文芸評論家)やなんかと同じ世代だと思う。戦前に関西大学を出ているんです。長男として家をつぐために、遠くに行けなかったみたい。周囲の人よりも頭一つ背が高くて、彫りが深い、格好のいい人でしたよ。祖父も同じようだったので、そういう家系なんですね。僕の場合は母の血で薄まったんでしょう(笑)。
僕が群像新人賞(1969年)をもらう直前に乳がんで亡くなった。男性がなることはほとんどないから、発見が遅れた。死んだ後で聞かされたけど、1930年代に左翼だったらしい。家にいたから弾圧を免れたし、非転向のままだった。

――思想のことは話さなかったんですか。

柄谷 僕には言わなかった。ただ、一回ね、小学校の頃に言われたことは覚えてるんですよ。新聞に火炎瓶闘争かなにかの記事で、学生に交番がやられている写真があった。「これ何やの?」と言ったら、ちょっと説明してくれて、そのときに怪しげなことを言ったんだよ。「お前もこういうことやるよ」とか。まあ、ふと出たんだね。だから、僕が東京に出た時に安保闘争でいろいろやっても、全然驚いてないんですよ。後から思えばね、しめしめと思ったのではないか。「ほら、言うた通りやろ」とかいう感じなんだよ(笑)。

――普段から口数が少ない人だったんですか?

柄谷 冗談は言うよ。だけど、そういうことは言わなかった。

――冗談好きの面も引き継いでるんですね。そして、左翼だった。

柄谷 一つだけ、左翼だった証拠としか言いようのないことがあった。それはその種の本を大量にもっていたことですね。福本和夫(マルクス主義理論家)とか三木清(哲学者)とか、そういう本が蔵の中にいっぱい置いてあったんですよ。もちろんマルクスやカントも。その他に、国内外の文学全集があった。だから、小学生のころから、かなり読みましたね。

――小学生で福本和夫ですか……。

柄谷 別にその頃、福本和夫を読んだわけじゃないよ(笑)。ただ、そこに本があるから、触っていただけです。開いて、パラパラめくってみたり。実際に、小学校のときに一番よく読んだのは、吉川英治の『三国志』とデュマの『モンテ・クリスト伯』ですね。どちらも戦前に出たもので、総ルビ付きだったから、小学生でも読めた。繰り返し読んだのは、この二つです。
ただ、本のことで、友達と話したことが一度もないんですよ。小学校だけではなく、中学・高校の時代も。その意味で、僕には友達がいなかったね。野球を一緒にやるような仲間はいたよ。でも、頭を使うような話はしなかったから。

――ご実家の蔵書はそのままですか?

柄谷 いや、母が大半を処分してしまいました。インテリ的な関心はまったくない人でしたから。僕も家に帰らなかったから、文句を言う資格がない。

――お母さん(きさえさん)はチャーミングな方だったそうですね。

柄谷 かわいい人でした。おしゃれ好きで。裕福な家の末っ子で娘1人だったから、両親や兄たちにかわいがられて育ったようです。それでだと思うけど、明るくてユーモラス。おっとりしながら、きっぱりした人でした。父の家に嫁いですぐに姑が盲腸で急死したから、あの時代の女性としては、気苦労をしないで済んだと思います。
僕は母には溺愛されていましたね。姉が2人いて、僕は末っ子で長男でした。僕が待望の跡取り息子だったんだね。だから、母親はうれしかったらしい。しかし、姉たちは複雑だったと思います。

柄谷さんの母・きさえさん(柄谷行人さん提供)
柄谷さんの母・きさえさん(柄谷行人さん提供)

幼い子どもとして戦争を経験したこと

――少しさかのぼりますが、最初の記憶は、近所に焼夷弾が落ちたのを見にいったことだった、と。坂本龍一さんとの対談(「啓蒙はすばらしい」『柄谷行人発言集 対話篇』読書人)でお話しされていましたね。

柄谷 昭和20年(1945年)くらいですね。焼け跡は自宅から200mほどのところです。爆撃というより、多分、米軍が大阪を空襲した後、残り物を捨てて行ったんですよ。各地にその跡がありました。たとえば、甲陽中学に入って、阪急の夙川駅から海岸まで歩いたのですが、あちこちに焼け跡があった。多分、元は豪邸だったと思います。
父は一度も兵役についていません。ただ、戦争中は、六甲山に防空壕を掘る仕事に駆り出されていたようです。父の弟は学徒動員されて、ルソン島で戦死した。うちの仏間に、角帽を被って馬に乗った彼の写真がかざってあって、僕はそれを見て育ちました。いろんな意味で、戦争が身近にあった感じがあるんです。
終戦後も、僕は父に、近くに駐留した米軍のキャンプにもよく連れて行かれた。父親は兵隊と英語で何か話していて、その間、僕はチョコレートやガムをもらって喜んでいた。当時はめったにないものだったからね。

空襲で焼け野原となった兵庫県西宮市内。柄谷さんが戦後通った中学・高校は西宮市にある甲陽学院=1945年8月
空襲で焼け野原となった兵庫県西宮市内。柄谷さんが戦後通った中学・高校は西宮市にある甲陽学院=1945年8月

――お父さんは何をしに行っていたんですかね。

柄谷 あとで聞いたら、英語を勉強するためだと言っていた。でも、いま考えると、息子にいろいろ見せておきたいと思ったんじゃないかな。新聞を出していたときに自転車で連れ回したのも、蔵書をそのままにしておいたのも、そのためだったんじゃないか。あの時代に左翼で転向しなかったんだから、当然、戦争にも否定的だったでしょう。僕には何も言わなかったけど、いずれわかるんじゃないかと思っていた気がするね。

――戦争との関わりはその後の人生にどんな影響を与えましたか。

柄谷 僕は1941年8月6日生まれです。つまり、戦後生まれの「団塊の世代」ではない。彼らは、戦後になって兵隊が帰国したあとに生まれた世代ですね。だから、人口が急に増えた。逆に大江さん(健三郎、1935年生まれ)あたりは、戦時下で数年学校に行っているので、戦争のことがわかっている。
一方、僕は幼い子どもとして戦争を体験した世代です。爆撃も知っていますし、夜中に地下壕に入ったり、近所の焼け跡を見に行ったりしたことがあるわけです。だけど、わけのわからないものとして経験していて、肝心なこと、これが戦争なんだということまでは理解できていない。といっても、色々なことを感じてはいるんだね。
このような経験をしてきた人間を、小説において一番うまくとらえたのは、僕より4歳年上の小説家、古井由吉です。その経験が『雪の下の蟹』のような作品になって出てくる。彼は、小説家として注目されたとき、戦争や政治のことをはっきり言わないので、「内向の世代」として批判の的となった。そのとき、僕は古井を擁護しました。そして、自分も「内向の世代」だと思った。ただし、僕が「内向」というのは、内部に閉じこもることではなく、逆に、それを通して、外部を「見直す」ことです。古井とは、そういうセンスを共有していたと思う。

教室では絶対に口をきかない子ども

《1948年、尼崎市立上坂部小学校に入学する》

――どんな子どもでしたか?

柄谷 まあ、振り返ってみれば、僕は奇妙な子どもだった。想像つくでしょ? 例えば、小学校2年生の終わりまで、教室でものを言わなかった。

――先生に話しかけられても?

柄谷 絶対言わなかった。だけどクラスに、そういう子が5、6人はいたんですよ。その中に混じっていたから全然平気だった。休み時間には喋るし。同じように黙っていた子は、たぶん先生のいうことがわからなかったんだと思う。後で知ったのですが、先生が僕の家に、「この子は(勉強が)できるのに、何でものを言わないのか」ということで相談に来たらしい。でも親は、ああそうですかと言って、僕には何も言わなかった。

――入学してから突然そうなったんですか?

柄谷 実は、もっと前にもあった。幼稚園のときに、伝染病(百日咳)で休んだ後、登園拒否になった。そのときは、うちのじいさんが、ほうきで僕を家の外に叩き出した。それで、泣き泣き行った。しかし、次の日から当然のように行くようになったのです。もともと行かない理由なんてなかったからね。しかし、きっかけとして、何かそういう力が働かないとダメなんだよ。そういう外部の力がいるの。

――すでに、「外部」や「他者」の問題がそこに生じているんですね。

柄谷 自分ではできなかったと思いますよ、自分だけでは。教室で口をきかないっていう問題が解けたのは、担任の若い女性の先生が病気で長期療養ということになって、代わりにもっと年上の女性の先生が来たあとです。その人は、そのクラスの生徒のことを何も知らないからね。それで、当然のように僕に、「柄谷君、どうですか」と話しかけてきた。たぶん、最初のテストの結果を見たからでしょうね。そのとき、僕はなぜか、ふと「はい」と答えちゃった。そうなると、そのまま続けざるを得ないから、以後喋るようになった。それは、今度の本、『力と交換様式』で書いたように、「Dが来た」っていう感じだな(笑)。

――「向こうから来た」というわけですか。

柄谷 そうですね。ふり返ると、そのことを思い出しちゃうね。

(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、スポーツ中心だった中学、高校時代。当時の読書体験の話。月1回更新予定)

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