「秩序ある無政府状態」とは何か E. E. エヴァンズ=プリチャード 『新版 ヌアー族』
記事:平凡社
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「人類学(文化人類学・社会人類学)」というとみなさんどんなイメージをお持ちでしょうか。見知らぬ土地に行って生活し、その社会を調査する学問と思っていらっしゃるかたも多いのではないでしょうか。最近ではそういった状況もかなり様変わりしていますが、そんな「ザ・人類学」のイメージにふさわしい本が、今月の新刊『ヌアー族』です。ちなみにこの本のように一民族の社会について描いた本のことを「民族誌(エスノグラフィ)」と呼びます。
現代の人類学のおおもとをたどると、マリノフスキーとラドクリフ=ブラウンという二人にたどり着きます。マリノフスキーは『西太平洋の遠洋航海者』(講談社学術文庫)、ラドクリフ=ブラウンは『アンダマン島民』(未邦訳)という民族誌の古典を著していますが、マリノフスキーに師事し、ラドクリフ=ブラウンのあとを継いでオックスフォード大学の社会人類学講座教授となった(ちなみにイギリスでは、アメリカ流の呼び名である文化人類学ではなく「社会人類学」と呼ばれることが多い)のが、本書著者のエヴァンズ=プリチャードです。
エヴァンズ=プリチャードは東アフリカの民族を調査して複数の民族誌を残していますが、彼の業績が現在まで知られているのは、本書『ヌアー族』をはじめとしてヌエル(現在では「ヌエル」という表記が一般的です)の人びとの社会について書き残したことが大きいでしょう。「一年という期間が、一民族の社会学的な調査をするのに十分であるとは思っていない」と書いている通り、全部で約一年の調査だったようですが、一年間とは思えないほど、彼はこの社会を緻密に、濃密に描き出しています。
ナイル川上流、現在の南スーダンにあるこの社会のひとつの特徴は、牛に極めて高い価値があることです。経済的に重要であるだけではなく、集落間の関係構築、婚姻の際の贈り物、口論や暴力沙汰の代償にも使われるなど、社会的にも非常に重要な役割を果たしています。さらに彼らは牛の色や模様の豊富な分類語彙を持っており、それが他の自然物の形容にも転用されるなど、文化的な価値の中心にも牛がいることがわかります。「死霊や精霊と接触を保つことができる」のも牛を通してだと考えられており、宗教的、儀礼的な側面も有しています。まさに彼らは「牛に生きる人々」(本書第一章のタイトル)だと言えるでしょう。
もうひとつ、この社会で興味深いことは「政府機関や司法制度、発達した指導体制、そして組織化された政治活動の欠如」が、ヌアー社会の大きな特徴であるということです。これをエヴァンズ=プリチャードは「秩序ある無政府状態」と呼んでいます。現在、人類学においてアナキズムがとらえ直される機運が高まっていますが、『くらしのアナキズム』(ミシマ社)を著した文化人類学者の松村圭一郎さんは「アナキズムの状態のほうが、人類の長い歴史を見ていくと普通の状態だった」とインタビューで語っています。松村さんはアナキズムを「支配権力のようなものに頼らなくても、みんなで助け合って生きていく」ことと話していますが、まさにヌアー族ではこのようなアナキズムによって社会が保たれています。しかし、国家がある状態をある意味「当然」ととらえてしまっている私たちには、権力統治機構がない社会の状態を想像することは、なかなか困難です。『ヌアー族』は、「秩序ある無政府状態」というものが具体的にはどういうものなのか、をわれわれに想像するすべを与えてくれます。
ヌエルの人びとは現在、南スーダン紛争の渦中で武力衝突や虐殺など、過酷な現実に直面していると言います。一刻も早く、平和が訪れることを願ってやみません。
文=岸本洋和(平凡社編集部)
まえがき
序章
第一章 牛に生きる人々
第二章 生態
第三章 時間と空間
第四章 政治体系
第五章 リニィジ体系
第六章 年齢組体系
解説 長島信弘
訳者あとがき
平凡社ライブラリー版 訳者あとがき
索引