「まさか」の本との出会い:『暴力のエスノグラフィー』の衝撃(前田健太郎さん・評)
記事:明石書店
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研究者として様々な本を読んでいると、時に「まさか」と思うような本に出会うことがある。それは、自分が決して思いつかなかったようなテーマについて、絶対に真似をできないような手法で書かれた本だ。アメリカの政治学者ティモシー・パチラットの『暴力のエスノグラフィー』は、まさにそのような「まさか」の本である。数年前、本書の原書である『Every Twelve Seconds』 (Yale University Press, 2011)を初めて手に取ったとき、私はその一風変わったタイトルにまず強い印象を受けた。そして、その中身を読んでみて、心の底から驚いた。そこには、想像もしなかったような世界が広がっていたからである。本書の内容については、巻末に羅芝賢氏の優れた解説が掲載されているので、関心のある方はそちらをご覧いただきたい。この短い文章では、私とこの本の出会いについて書きたいと思う。
私を驚かせたのは、まず何よりも、本書がエスノグラフィーという手法を用いて書かれているということであった。なんとパチラットは、約2年間にわたってアメリカ中西部の地方都市でフィールドワークを行ない、そのうちの約半年間は、屠殺場でフルタイムの労働者として働いたのである。著者は仲間の労働者たちと共に、文字通り血と汗にまみれながら、肉牛が屠殺場に吸い込まれ、最終的に食肉となって出荷されていくという、そのブラックボックスの中身をつぶさに明らかにしていく。一日に約2500頭、あるいは原書のタイトルに倣えば「12秒ごとに1頭」のペースで牛を殺し続けるという暴力的な行為が、なぜ人間に可能なのか。一見するとどこにでもある屠殺場には、それを可能にするための驚くべき仕掛けが施されていた。
私は、こんな研究手法は、アメリカ政治学ではとっくに絶滅したと思っていた。客観的な分析を行なうという理念のもと、数理モデルや統計分析といった数学的な手法を用いることにこそ、この国の政治学の真骨頂があるのであって、それ以外の手法を用いた研究は隅に追いやられてきたというのが、少なくともこの数十年間のアメリカ政治学の長期的な傾向だったはずだ。ベネディクト・アンダーソンやリチャード・フェノといった個性的な芸術家たちが腕を振るっていた時代はとうの昔に過ぎ去り、今は一定の形式に規格化された雑誌論文が大量生産される時代なのではなかったのか。パチラットがあのジェームズ・C・スコットの指導を受けたと知って、その独特のスタイルがどこから来たのかが多少は分かったが、それにしても、アメリカの学界の雰囲気のなかで、こんな本が出版されたというのが、にわかには信じられなかった。
しかも本書には、政治学の専門家でなければ理解できないような内容は、何も書かれていなかった。屠殺場で働く労働者たちは、どこから来たのか。労働者たちはどのようにして仕事を学び、習熟していくのか。牛の命を奪う作業は、どのように行なわれているのか。そして、この全体の工程は、どのようにして管理されているのか。本書は、その過程を平易かつ明快な文章で書き綴っていく。
こんな文章は、パチラットの世代の研究者であれば、普通は書かない。しかも、本書の原型はイェール大学という、アメリカで最も有名な大学の一つで書かれた博士論文である。その種の本は、著者の専門性を誇示すべく、高度な統計分析を行なっていたり、難解なジャーゴンを散りばめていたりするので、それを一般読者が理解するのは容易ではない。ところが、本書は著者が読者に対して語りかけるようなやわらかい会話文で、それも実に美しい英語で書かれている。そんなことが、まさか21世紀のアメリカで可能だったとは……。
それでいて、パチラットが行なったような研究は、決して容易になしうるものではない。大学院生というのは、常に他の大学院生との競争を強いられている以上、そこには常に、「勝利の方程式」があり、その方程式に従ってキャリアを積み重ねていくのが「賢い」研究者の姿である。少なくともパチラットが大学院生だった頃であれば、最新の統計分析の手法を学び、その手法に合わせてデータを集め、雑誌論文にまとめていく、というのが既に大きな流れになっていたはずだ。そのような道を捨て、決して成功の約束されているわけではない長期間のフィールドワークに身を投じるというリスクの高い選択を、パチラットはやってのけた。
極めつきは、パチラットが単に人間の暴力を取り上げるだけでなく、それに自分自身の問題として向き合っているということだ。これは政治学に限った話ではないのだが、一般的に暴力についての研究は、他者の振るう暴力を対象としている。何かを客観的に研究するというのは、対象と一定の距離を取ることを必要とすると考えられているからだ。同時に、そこでは自分は暴力の行使とは無縁だという前提が置かれている。ところが本書は、著者自身が物理的な力を行使し、命を奪う側にいることについて、きわめて自覚的だった。牛たちを屠殺する作業に従事するなかで、著者はいくつもの葛藤に直面し、自らの内面が変わっていく様子を綴っている。その意味において、本書は単なる社会科見学の類いではなかった。それは、パチラットという一人の人間が、研究を通じて自分自身を見つめ直し、成長していく記録であった。
目に見えていることの背後には、必ず何か隠されているものがある。一見すると、私たちの生きる現代の社会は、暴力を抑制し、平和な秩序を作り上げてきた。しかし、そう見えるのは、私たち自身が暴力を隠蔽し、忘却し、あたかも存在しないかのように振る舞ってきたからなのだ。たとえ自分の手を汚してでも、この真実を明らかにする必要がある。自分のフィールドワークの過程で屠殺された牛たちへの感謝が本書の謝辞の冒頭に掲げられているのは、その決意の表明だろう。
こうした態度は、もしかするとパチラット自身の決して平坦とは言えない人生に由来しているのかもしれない。彼はタイで生まれ育った後、大学入学を契機にアメリカに移り住み、各地を転々としながら、「住宅の工事現場の大工、ピザ配達人、自閉症の子どものための行動療法士、専業主夫、大学院生、屠殺場の労働者」を経て、大学教授になったという(Avi Solomon, “Working Undercover in a Slaughterhouse: an interview with Timothy Pachirat,” Boingboing.net)。こんな自己紹介ができる政治学者は、そうそういるものではない。パチラットは、人間社会の表面的な秩序が実は驚くほど細やかな権力の働きによって成り立っていることを、自分の経験として、よく知っているに違いない。
そして何より、パチラットの本は、とにかく面白かった。この本を、当時勤務していた首都大学東京(現東京都立大学)の南大沢キャンパスにある研究室で読み始めた私は、続きが気になってなかなか手を離すことができず、結局、帰りの京王線の電車内でも読み続け、家に帰ってからも夜更かしをして、一気に読み切ってしまった。パチラットの文章は、自分がまるでその屠殺場で本当に働いているような気分にさせてくれたし、本の終盤で突然、農務省(USDA)の検査官に呼び出されたパチラットが自分の正体を明かさざるを得なくなる場面では、とても名残惜しい気持ちになった。常に大量の本の山に囲まれ、自分の研究に関係のある本の必要な箇所を抜き出し、ともすれば粗探しをしながら読んでしまいがちな自分にとって、ここまで読者として夢中にさせてくれた本は、あまり記憶にない。同業者として、こんな本を書くことができたパチラットという研究者を羨ましく思った。
原書が出版されてから10年あまりが経過した今日、本書は近年のアメリカ政治学において、最も広く読まれ、参照される本の一つとなった。おそらく、多くの研究者が、私と同じように本書の出現に驚き、刺激を受けたのだろう。今回、この作品がついに日本語に翻訳されたことを素直に喜びたい。