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原発災害が生み出した分断の深みと、それを越えていく歩みを描く——『福島原発事故被災者 苦難と希望の人類学』より

記事:明石書店

『福島原発事故被災者 苦難と希望の人類学——分断と対立を乗り越えるために』(明石書店)
『福島原発事故被災者 苦難と希望の人類学——分断と対立を乗り越えるために』(明石書店)

原発被災者の苦難を知る

 2011年3月11日以後に生じた福島第一原発事故から11年半が過ぎた。この事故による災害が人々にどのような苦難をもたらしたか、被災者が災害による生活変動をどのように経験したかについては、報道や裁判等でときおり伝えられることはある。しかし、まとまった情報に触れ、広く深く理解するという機会はなかなかない。筆者は2017年頃までに複数回は福島県の被災地を訪れたり、避難者の声に接する場に立ち会ったりしていたが、以後はそうした機会も乏しくなった。たまに被災地を訪問したり、避難者の声を聞いたりすることはあっても、それらは断片的な情報にとどまる。できるだけ記憶にとどめようとするのがせいぜいのところだ。

 これは私自身の福島原発災害との関わりが、主に低線量被曝をめぐる政府・東電、専門家の行動や、そこで提示される情報や判断への批判的アプローチにあったということによっている。いわば加害者側の行動を通して、被害を受ける当事者の苦難を推測するのが基本となってきた。もちろん、被災者に接しながら、その苦渋に満ちた経験について耳を傾け、文章を読む機会をもとうとはしてきた。大いに役立つ論述は確かにある。早い時期のものとして、成元哲『終わらない被災の時間——原発事故が福島県中通りの親子に与える影響(ストレス)』(石風社、2015年)、吉田千亜『ルポ 母子避難——消されゆく原発事故被害者』(岩波新書、2016年)などがあり、この問題の困難さと複雑さを知る上で大いに助けられてきた。

 だが、これらは特定のタイプの被災者を取り上げたものであり、被災者の全体像を展望し、広く被災経験の全貌を見渡しつつ原発被災の苦難を捉えるというものではなかった。また、筆者は原子力市民委員会のメンバーとして、2014年、2017年、2022年に刊行された『原発ゼロ社会への道』(原子力市民委員会)の編集・執筆にも関わってきた。私が関わってきたのはいずれの版も第1章だが、それは2014年版で「福島原発事故被害の全貌と人間の復興」と題されており、2017年版、2022年版でも大差ない題である。「被害の全貌」は当事者の経験とその語りを拾い上げつつ描き出すべきものであるが、それをなすのは容易でなかったと自覚している。

人類学的アプローチの重要性

 こうした仕事に取り組むなかで、医師であり、医療人類学、文化人類学の領域で学位を取得し、医学的研究手法にも熟達しつつ、大学で人類学を教えてきた辻内琢也の仕事には教えられることが多かった。とりわけ統計的手法を用い、数値化された資料に即して原発災害の健康影響を論じたいくつかの論文は、見えにくい被害を見える化(可視化)する上で、大いに参考になった。他にも辻内には社会福祉士の資格をももつ増田和高との共編で、聞き取りやフィールドワークの手法を有効に用いた研究書、『フクシマの人類学』(遠見書房、2019年)もある。

 この度、刊行される辻内とトム・ギルの編集による『原発事故被災者 苦難と希望の人類学——分断と対立を乗り越えるために』(明石書店)は、エスノグラフィー(民族誌)に通じる手法を用いているという点では『フクシマの人類学』を思い起こさせるが、多くの人類学的研究者のフィールドワークを照らし合わせ、総合するような形で構成されているという点で独自性がある。そして、一方で「被害の全貌」を理論的に視野に入れるとともに、地を這うようにして当事者の視座をくみあげつつ、被災者の苦難と希望について学ぶことができる書物にまとめ上げている。当事者に近いところから、原発被害の経験を広く深く描き出しているという点で、私が求めていた書物に出会ったと感じた次第である。

各章にみる被害と当事者たち

 2章から第10章までは、強制避難者と自主避難者の苦難の経験についての叙述である。トム・ギルによる第2章「突然の追放、突然の富、そして妬みを差別——福島県飯館村長泥・強制避難者の苦難」では、飯館村のなかでも唯一、避難解除がなされていない長泥地区の住民たちの、他者とは分かち合いにくい生きづらさについて述べられている。賠償が多いために恵まれているようではあるが、妬みと差別の対象となり、「賠償金による分断」の典型例となる。今なお土地への熱い想いをもち続け高齢化していく住民だが、交わりはかろうじて維持されていても、各自の寂しさは募る。

 楊雪による第3章「閉ざされたドア——東京・高層マンションにおける避難者コミュニティの苦闘」では、千人以上の強制避難者・自主避難者が居住した東京の高層マンション、東雲住宅での避難者の2020年に至るまでの交流のあり方について記述している。「東雲の会」が設立され「東雲サロン」が運営されたり、「ゴミ拾い」が行われたりするが、大多数の人々は参加することはなかった。東日本大震災以後に希望を託す言葉として語られてきた「きずな」だが、求められているものの実態は避難者たちの寂しさを超えていくものとはならない。

 堀川直子による第4章「日常の苦境、模索する希望——『強制避難』単身女性たちの暮らし」は3人の強制避難者の女性の語りに基づくものだ。双葉町から住民集団として避難したスミ子さん、浪江町請戸から東雲住宅に避難したシゲ子さん、田村市常葉町からみなし仮設住宅の都営住宅に避難したヤヨイさんだが、それぞれ新たな生活の場を作ろうとしてきた。被災者として声を上げ、災害による苦難からの脱却を求める動きに対する距離はさまざまだが、仮の居場所にいることの不安定さは通底している。

 アレキサンドル・スクリャールによる第5章「福島から自主避難した母親たちのディレンマ——家族と社会を尊重しながら、どう放射能から子どもを守るか」では、福島県北部から山形に避難した自主避難者が経験した困難について述べている。子どもたちを気づかう母親たちは、「ゆっくりとしのびよる暴力」(スロー・バイオレンス)に直面し、他者との認識ギャップによる分断に苦しみ続けている。

 木村あやによる第6章「草の根からの『市民』と、国や東電が構築する『市民』——ゆらぐ『市民性』に対峙する市民放射能測定所」は、原発事故後、各地で立ち上げられた市民放射能測定所について取り上げた。市民放射能測定所が「市民」の主体的活動により避難者支援の拠点となり、分断を強いる政治的な力に抗する「市民性」を掲げる力となったこと、そして一方では、「風評」を掲げるなどして放射線への懸念の表明を封じ、異なる「市民」像を強いてくる政治機構に脅やかされざるをえなかったことに、「市民性」をめぐる緊張関係を見ようとしている。

 レシュケ綾香による第7章「住宅支援打ち切りへの抗議——自主避難者による抗議運動の成否を分けた6つの要因」は、自主避難者の住宅支援打ち切りに対する抗議に応え、支援を継続する自治体もあったことから、どのような場合に抗議運動が成功したのか、その要因を探っている。これは世界的に重要性が増している当事者運動の事例とみることもできるが、当事者が主体となる場面が限られていたこと、全国的な運動に高められなかったことなどに注目している。

 マリー・ヴァイソープトによる第8章の「自主避難者が帰るとき——放射線防護対策と社会的適切性の狭間で」では、多くの自主避難者の女性が子どもへの放射線の影響に関する懸念を語ることができず、沈黙を強いられつつ帰還を選択していったことが示されている。学校や家族を通して強いられる社会的適切性をやむをえず受け入れていくこと、それによってさらに孤立を深めざるをえなかった現実も見えてくる。

 日高友郎、鈴木祐子、照井稔宏による第9章「『大熊町の私』から『私の中の大熊町』へ——ふるさとの構造的な喪失と希望の物語の生成」は、福島第一原発が所在し、使用年限が30年間とされる中間貯蔵施設の設置場所ともなっている大熊町のかつての住民が、帰ることができない大熊町にどのような思いをもっているか、その語りを紹介している。貧しい地域でかつて積極的に原発を誘致し、いくぶんかは原発で潤ったことを認めつつ、事故による被害が宙づりの状態のまま生きなくてはならないことへの怒りがある。だが、それと同時に住民たちは大熊への愛着を持ち続けている。

 平田修三、金智慧と辻内による第10章「分断と対立を越えるために——当事小学生だった若者たちとの対話から」は、多くは差別やいじめの経験がある避難児童たちが、その経験に苦しみ語ることの困難を自覚していく一方、異なる立場の者たちと対話できるような姿勢を身につけていく場合もあったことに注目している。本書の多くの章ではなかなか見えてこなかった「希望」が、ここでは「対話」「会話」を通して見えてくることが論じられている。

構造的暴力の作用と分断・対立

 以上の諸章をはさむようにして、辻内による「イントロダクション——分断と対立の根底にある問題群」、第1章「慢性状態の急性増悪——原発事故被害者に対する構造的暴力の解明」と、「エピローグ——苦難と希望の人類学」が置かれている。この三つの章はいわば理論編であり、それぞれの題材に即して原発被害の経験を深く掘り下げている各章の問題意識を拾い上げつつ、全体に通底する考察枠組みを示している。

 キーワードの一つはヨハン・ガルトゥンクが定式化した「構造的暴力」の概念だ。平時から社会構造のなかに埋め込まれ、さまざまな力関係を通して作用している構造的暴力がある。大きな社会的紛争や災害などが起こると、それが目に見える形で弱い立場の人々にのしかかってくる。医療人類学者のポール・ファーマーは医療用語を用いて、これを「慢性状態の急性増悪」とよんだ。

 原発事故においては放射線のリスク評価をめぐり被災当事者の間で生じた相違が、さまざまな生活形態にまで及んでいき、分断や対立を招き、沈黙を強いられ、孤立や心身の健康不全にまで影響し、人々の苦難は深まる。分断を強いる抑圧的な力の作用を和らげたり和解に向かったりする動きはなかなか形をとっていかない。

希望の光を求めて

 だが、抑圧に抗いつつ構造的な暴力性を見定めることが分断を超えていく一歩となるだろう。辻内が提示しているように、困難の諸要因が明確化していくことで、ともに抵抗していくための展望が見えてくるはずだ。

 困難な現実から希望を見出していくこともありうる。本書の多くの章は希望が見えない状況を描き出しているが、若者に焦点をあてた第10章では希望の光が見えてくるようである。学術的な探求も被災者や支援者とともにそのような光を探しながら、行われてきたし、今後も続けられていくことだろう。

 多くの時間をかけて丁寧に行われた実践的な調査研究を結集した書物であり、まずは、個々の調査研究の細部から見えてくるものの豊かさに鼓舞される。そして、それにふさわしい力強い理論的枠組みも提示されていて、さまざまな苦難が重なり合うなかから、希望につながる方向が見えてくるようにも感じられる。当事者と交流しつつ、福島原発災害の苦難に向き合う、フィールドワーク研究の貴重な成果である。

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