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反復を通して、新たな共有地を紡ぎ出す――木村周平さん・評『震災後のエスノグラフィ』

記事:明石書店

本書の装画を担当した瀬尾夏美さんの作品『atsumaru』。
本書の装画を担当した瀬尾夏美さんの作品『atsumaru』。

「震災後」を言葉にする

 タイトルの「震災後」が目を引く。災害が起きると、私たちは「復興」という言葉でその後の様々なことを語ろうとする。だが「復興」という言葉は、目指すべき地点があること、英語でBuild Back Betterと訳されるように、その地点がより良いものであることを含意する。だからこそ、この言葉は災害に巻き込まれた人々を勇気づける。しかし逆に、人々を苦しませることもある。災害の後に起きるのは決して「より良いもの」につながることばかりでも、思い通りにいくことばかりでもないからだ。では、そうした〈ままならなさ〉(本書のキーワードである)に満ちた事態は、失敗でしかないのだろうか、語る価値がないものなのだろうか。

 決してそうではない、と著者は言うだろう。著者は、災害後の日々――それがいかなるものであれ――を自ら受け止め、言葉にしようとする人々の、その言葉を丁寧に受け止め、自らも言葉で応じる。そして、そうした言葉たちをひとつの本にして、誰かに向けて送り出す。それが本書、つまり「復興」ではない、「震災後」のエスノグラフィだといえよう。

阪神大震災を記録しつづける会

 1995年1月17日に阪神・淡路大震災が起きてまだ1か月とたたない被災地で、震災を記録しよう、しつづけていこうと、市民から手記を募りはじめた人がいた。高森一徳氏だ。この尋常ではない活動に、多くの人が共感し、手記を寄せた。

 「記録」はしばしば、「記憶」と対置され、前者が客観的で、後者が主観的、とされる。だが、この手記集が記録しようとしたのは、震災という事実というより、震災にかかわる体験であった。だからこの記録は、主観を客観視するという、決して容易でないことを必要とする。それは苦しいことでも、癒しでもあるだろう。だが自分に真摯に向き合うからこそ、その言葉は逆説的に、完全に私的なものになるのではなく、他人の生の手がかりになりうる。

 一徳氏は「阪神大震災を記録しつづける会」として、苦労しながらも精力的に、毎年、手記集を編集し、刊行した。だが節目となる10年目の手記集の刊行を目前に亡くなってしまう。その数年後、彼の姪がこの活動に関わるようになる。こうして、研究者であると同時に「阪神大震災を記録しつづける会」の事務局長という立場でアクションリサーチを続けたのが、本書の著者、高森順子だ。

 手記集の執筆者たちと彼女を中心とする小さなコミュニティが活動をつづけていくのは、決して楽ではなかった。執筆者は定義上、もう増えることはないし、年を重ねるにつれ、集まることも難しくなっていく。だとすればこの会の活動は、コミュニティをより良くすることを目指すアクションリサーチの成功例とは見なしがたいのではないか?著者はこの思いに苦しめられた。

 そうした葛藤への力強い応答が、本書だ。

手記をたどる

 本書は3部、全8章で構成されている。「エスノグラフィ」と題された第I部は本書全体の6割ほどを占める。そこでは一徳氏の死から、著者がある執筆者夫婦と出会い、手記執筆者の集いを毎年開催するようになり、震災20年目に手記集、そして25年目にインタビューにもとづく記録集を刊行するまでの経緯が記述される。

 その意味で第I部は、著者による長い手記と言えるかもしれない。だとすれば著者も手記の執筆者たちと同じように、書く苦しみと癒しを味わっただろう。ただし、その記述のはじまりと終わりに位置するのは、震災ではなく、伯父と父という、著者にとっても、「記録しつづける会」においても重要な人物の死だ。この二つの大きな〈ままならなさ〉の間に、会の活動の歩みと紆余曲折が仔細に描かれ、さらに第3章を中心に、記録集に向けたインタビューの状景や、実際のやりとり、さらにテレビニュースでの言葉など、異なるスタイルの文章がつなげられ、記述をより多声的なものにする工夫もなされている。

 著者は書き手であると同時に、熱心な手記の読み手であり、執筆者たちの言葉たちを丁寧に聞き取る人でもある。インタビューでは著者は執筆者たちの書き方や、ちょっとした言葉遣いなどの微細な部分に目を向け、かれらに尋ねることで、手記に現れているのとは異なる、しかしやはり執筆者たち自身のものである言葉を引き出している。そこで明らかになる執筆者たちの手記への関わり方は、決して一様ではない。かれらの語りやふるまいに含まれる共通性と差異を丹念に追うことは、手記を書く(書きつづける)ことを、かれらの日々の生のなかに位置づけ直して考える手がかりになるだろう。

アクションリサーチを問い直す

 第II部は「分析編」である。第4章では「記録しつづける会」が発行した10冊の手記集の応募数や掲載数、実際の手記の記述、および掲載までの執筆者と編集者のやりとりなどをもとに、この手記集が目指したものや、その実現に向けた編集者の役割を分析する。第5章では第I部を振り返る形で、それぞれの時点における、活動における事態あるいは当事者の感覚としての〈ままならなさ〉を浮かび上がらせる。そのうえで、執筆者がなぜ手記を書くのかを考察し、〈ままならなさ〉がこの会の活動を駆動してきたことを論じる。

 第III部は「理論編」である。第6章ではアクションリサーチとその記述に関する理論と実際の記述群を検討し、コミュニティを「より良い」状態へと変化させるものとしてのアクションリサーチの規範が、〈ままならなさ〉を記述から捨象させがちであるという問題点を指摘する。そして、その乗り越えとして社会学を参照しつつ、〈ままならなさ〉を、記述における、些末だが滑らかな語りに逆らうようなディテールや断片として捉え直す。それらは第7章では「活動の肌理」の「ざらつき」「ごわつき」と言い換えられ、エスノグラフィにおける「つなぎ目」の記述の仕方という問題として位置づけ直される。そこから導かれるのは、書き手が「他者」の言説を独占せず、また執筆者の多面性を無理に統合せず、多声的なものとしてエスノグラフィを書くという方向性だ。この読者の多様な解釈や多様な応答を引き出しうるエスノグラフィを、著者は「共話的エスノグラフィ」と呼ぶ。

 ある人が、自分の体験を表す言葉が完全には見つからないまま、相手を信じて、言葉を発する。相手も、やはり十分な確信のないまま、しかし相手を信じて、それに応答する。双方の言葉は、時にずれ、すれ違いながらも、その中間に共有地をつくりだし、相互に補完しあい、より確かなものになっていく。こうしたプロセスとしての共話は、一徳氏と手記執筆者の関係であり、手記執筆者と手記を読み込んだ著者の関係である。そしてもちろん、本書と読者の関係でもある。最終章では、本書の記述や活動を仮に閉じる=綴じて「モノ化」し、それが生むかもしれない予期せぬ「出会い」に向けて「待ち構える」ことが論じられる。

 こうして本書は読者に委ねられる。

反復する、しかし決して同じものではなく

 本書を特徴づけるのは反復という行為だ。そもそも、「記録しつづける」ということが反復を含んでいる。執筆者たちは毎年、阪神・淡路大震災という「節目」に立ち戻り、そして書いてきた。だが、それが反復的な行為だといっても、かれらは同じことを・同じように書きたくはないだろうし、実際にそうなりはしないだろう。時間が経つなかで否応なく、自分も変わるし、周囲も変わっていく。だからこそ言葉にできることも出てくる。だが、あの日に立ち戻ることや、言葉にすることはより難しくなる。そうしたなかで、かれらはもう一度、自分に向かい合い、新たに書く。

 著者も反復する。手記集や記録集の編集を通じて、一徳氏の行為をたどり直す。彼の方針をより深く理解し、新たな工夫を付け加える。さらに本書自体も、何重にも反復を含んでいる。上述の通り第I部は「記録しつづける会」と自身の活動をたどり直す記述だが、その記述には手記集や記録集の言葉も再掲されている。第II部以降では、そうした反復を含んだ記述をもう一度振り返りながら、考察が展開される。

 こうした、苦しみながら新たなものを生み出す反復は、まさに、かれらコミュニティの歩み方だと言えるのではないだろうか。それは平坦でも直線的でもない、時間のかかる歩みだ。しかしその螺旋を描く反復は、「成功」と「失敗」を選り分けることなく、「あの日」や「終わり」をもその内に含み込み、さらには他の災厄に巻き込まれた人々や、本書の読者など、かれら以外の人々をもその動きに巻き込み、進んでいく。確かな聞き手、応答する人である著者は、このようにしながら、次にまた新たなものを生み出していくだろう。

新たな共話に向けて

 評者は本書の歩みを感嘆と共感をもって受け止める。〈ままならなさ〉や「出会い」など、本書のいくつかの論点は、評者の専門である文化人類学のフィールドワークとも共通するものである。そこでは、フィールドで途方に暮れ、挫折し、調査計画を作り直すことになってはじめて、真っ当な調査だ、と言われることがある。それは現場が机上で想像した通りではないことが明らかになり、より深く対象のことが分かりはじめた証拠だからだ。こうした経験は、調査者を謙虚にする。対象について断定的に語ろうとするのではなく、エスノグラフィを、雑多な記述を含み、多様な解釈に開かれたものとして描き、それによって対象に貼られたラベル――「被災者」であれ、「〇〇コミュニティの成員」であれ――を揺るがせようとするようになる。こうした姿勢は本書とも深く通じるだろう。本書を通じて、アクションリサーチと文化人類学の間、さらにそれらを超えて、災厄と向かい合おうとする多様な人々の間の共話が各地で起こり、新たな言葉が紡がれていくことを期待したい。

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