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生業と余技の両立 戦間期の句作する「会社員」への関心から、籾山書店・籾山仁三郎と出合う

記事:幻戯書房

籾山書店刊行の胡蝶本の表紙を背景とした『籾山仁三郎〈梓月〉伝―実業と余技』のカバー。籾山がたしなんだ茶席の花、木槿と桔梗をあしらった。
籾山書店刊行の胡蝶本の表紙を背景とした『籾山仁三郎〈梓月〉伝―実業と余技』のカバー。籾山がたしなんだ茶席の花、木槿と桔梗をあしらった。

生業と余技のディレッタント・籾山仁三郎

 籾山仁三郎。いい人にめぐり合ったと思っている。

 明治中期に品格の素地を形づくる教育を享けることができ、出版社社主としてビジネスを成功させ、文豪との付き合いも熟(こな)し、余技である俳諧に名吟を遺した。実業家ではなく、むしろ日本橋町方の店主というような印象である。生業と余技とのバランスを図る生き方は、籾山独特のものである。ただ時事新報社に役員として入社したのは、業種選択を誤り、社内環境・時期も悪く、籾山にとって不運であった。しかし80年という生涯を生き抜いた魂は、遺した俳諧とともに永遠に生き続けるのである。

 本書は籾山仁三郎、梓月の人生を振り返る試みであり、文献を頼りによろよろと手探りしながらようやくここに辿りついた。つくづく思うのは、籾山の人生と我が身との懸隔である。筆者が漢詩に触れたのは高校授業の漢文までで、以後籾山のように漢籍には親しんでこなかったこと、花柳界が衰退した後の高度経済成長期に会社員となり、籾山、大場白水郎、阪倉得旨のように“折花攀柳(せっかはんりゅう)”の世界には近づけなかったこと、小学生時代ラジオで「小唄の時間」を聴いていても籾山のようには邦楽の世界に足を踏み入れてこなかったこと、生来の悪筆で籾山のように筆硯に親しむことがなかったこと、等々籾山と引き比べ、当然ではあるが、己の至り無さに思い至っているところである。執筆中実体験、実感とは離れたところで評伝を綴ることの難しさを常に感じていた。その難行の中、筆者が籾山への関心をもち続ける動力となったのは、籾山が生業を持ちつつ余技として俳諧・随筆・小説など文芸を試みる、「二足の草鞋」を履くディレッタントであったことである。

籾山仁三郎52歳の頃
籾山仁三郎52歳の頃

籾山仁三郎を知る契機

 会社員として34年、大学教員として14年、駄句一句をも吐かず、冗漫な詩一行も物せず、余技も無く唯趣味として謡・仕舞を齧るだけ(それも今は休眠中)で、生業の周りをうろうろする生活を続けたやつがれ、俳人としての籾山梓月を評価し評伝を著すなど無謀なこととは先刻承知。敢えてこの難業に乗り出すきっかけは、筆者会社員時代にある。京都出張帰りの新幹線車中で読む本を探しに京都四條の古書店に行き当たり、そこで買い求めた戸板康二著『久保田万太郎』(文春文庫 1983年)が、そもそもの始まりである。戸板の著書とはその時が初めての出会いであったが、柔らかな文体で一気に読ませる好著であった。その中に久保田万太郎を宗匠とする「いとう句会」に言及している箇所があった。句会に参加しているメンバーの多くが会社員で、句作を余技としていたことに興味をもったのである。句会の発案者である内田誠は明治製菓、阪倉得旨は銀座三丁目にあった玉屋商店、主要メンバーである大場白水郎は宮田自転車、秦豊吉と森茂雄は東宝系企業と、それぞれに勤務していた。内田と阪倉は、籾山が創刊した『俳諧雑誌』が休刊すると、それを継承しつつ、俳諧だけでなく随筆の寄稿も多く掲載した雑誌『春泥』を創刊する。会社員でありながら、余技として文芸に関わっていた人物群。会社員というポジションを維持しつつ、文芸の発展に寄与し文化形成の一角を担った人々が存在したのである。それが可能になったのは、第一次世界大戦と第二次世界大戦との戦間期、日本経済に余剰が生み出されたことと、会社経営内部での弾力的な経費運用とおおらかな職業倫理という企業内の条件とが相乗的に働いたことによるのであろう。

 内田誠は、筆者にとって強い関心をもつ対象であり、彼の幅広い活動を「“会社員”内田誠のスヰート――生業、余技、そして趣味」という一文におさめ略伝とする機会があった。(共著『東京府のマボロシ 失われた文化、味わい、価値観の再発見 ほろよいブックス』社会評論社、2014年12月)今回特に阪倉得旨について、内田誠に続き、その全貌を捉えることができ、これまで欠落していた部分を新たに補完し得たと考えている。

 籾山が生涯関わる経済・経営という生業、それと俳諧という余技(文事)については、本書で不十分ながらも触れることができたが、籾山の句作にも影響を与えたであろう絵画鑑賞(絵事)と邦楽(音事)についてはほとんど触れていない。特に西洋音楽を認めない籾山に、三味線音楽、邦楽がどのような影響を与えたか、というテーマについては、引き続き考察を進めたいと考えている。

「文明」第1期第1号 荷風が編集主筆・発行人の立場に就き、籾山が編集・印刷・販売の役割を果たした。大正5年4月号から大正7年9月号まで、2年半の間、欠月無しで30号まで継続刊行された月刊文芸誌となる。籾山38歳から40歳までの充実した時期。
「文明」第1期第1号 荷風が編集主筆・発行人の立場に就き、籾山が編集・印刷・販売の役割を果たした。大正5年4月号から大正7年9月号まで、2年半の間、欠月無しで30号まで継続刊行された月刊文芸誌となる。籾山38歳から40歳までの充実した時期。

籾山の余技としての俳句 籾山の句集『江戸庵句集』(大正5年)と『冬うぐひす』(昭和12年)それぞれの序。生涯8冊の句集を梓月ではなく仁三郎名で出版している。
籾山の余技としての俳句 籾山の句集『江戸庵句集』(大正5年)と『冬うぐひす』(昭和12年)それぞれの序。生涯8冊の句集を梓月ではなく仁三郎名で出版している。

出版人と俳人とをつなぐ試み

 故加藤郁乎氏の未完に終わった小説「春しぐれ」は、俗事を離れ鎌倉に隠棲した梓月、というイメージで語り始められていて、町方にあり生業と余技とのはざまで実業と文芸とを熟(こな)していた籾山の姿が、朧になってしまう恐れがあるのでは、と拝察する。本稿は、加藤氏の捉え方とは異なる視点で描いた籾山仁三郎の外伝であるので、加藤氏の企図した小説とは全く別の様相を呈している。天空に飛翔する加藤郁乎氏の御魂に、憤怒無きよう祈るばかりである。

「叙」の項で触れた相磯凌霜著『荷風余話』の編者である小出昌洋氏は、“あとがき”にあたる「編者贅言」の中で、次のように述べている。

 森先生(著者注:森銑三のこと)がまだお元気で、外出も厭われないころのこと、先生から、相磯さんは籾山梓月さんをもご存じだから、その聞き書きをしたい、ついては同道して、原稿を作るようにといわれたことがあった。それで決められた日に出掛けたのであるが、先生と相磯さんとの話は、つぎからつぎへと話柄が飛んで、纏らない、それでも何とか整えて見たら、それは今回本書に収録した「余話」に書かれる梓月さんを出るものではなく、新味に乏しく、ものにならなかった。それでまた日を改めて何とかしようといっているうちに、先生の外出がままならなくなり、そのことはついに頓挫した。

 小出氏と先師森銑三との間で果たせなかった籾山に関する「聞き書き」、本稿で補うことができれば望外の幸せである。

 また神奈川近代文学館に籾山の令孫お二人から寄贈された籾山関連の資料などを探索すれば、新たなことに出会えるとも思うのだが、本書は既存刊行資料を手繰ってまとめたもの、筆者にとっての「なかじきり」である。

 本稿をまとめるに際し、以下の方々の研究業績を参考とさせていただいた。

(1)俳諧・俳句の実作を成さない筆者にとって、以下の研究者の方々の論考は、俳諧・俳句を理解するに大きな助けとなった。ここに感謝申し上げる次第である。
(敬称略)井田太郎・乾裕幸・今泉準一・上野洋三・越後敬子・尾形仂・雲英末雄・栗山理一・櫻井武次郎・白石悌三・田中善信・藤田真一・堀切実・山下一海

(2)戸板康二を探索し続けインターネット上で「日用帳」というページを展開している藤田加奈子氏、現代では忘れ去られてしまった増田龍雨を蘇えらせた金丸文夫氏に対しては、そのご努力に敬意を表する。

 籾山伝を著わそうと思いついた時、背中を押してくださった川崎勝氏、籾山に関する小文を掲載してくださった福沢諭吉協会に感謝申し上げる。

 本書執筆にあたっては、国会図書館・東京都立図書館の希少資料が大いに役に立ったが、特に東京都中央区立京橋図書館の地域資料、東京都江東区立深川図書館の蔵書、および神奈川近代文学館の文学関連資料と蔵書雑誌からは貴重な情報に恵まれた。


※【籾山仁三郎(もみやま・にさぶろう)とは】籾山仁三郎(1878-1958)、俳号梓月(しげつ)は永井荷風の陰に佇む人物として位置づけられてきた。荷風より丸二年先に生まれた籾山(明治11年1月生)は、荷風より丸一年先に逝く(昭和33年4月歿)。経済にも通じ、ビジネスとしての出版を営みながら、自ら俳諧や茶道など、趣味にも生きた。

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