種村季弘、齋藤靖朗、牧野信一、坂口安吾、埴谷雄高、文化庁、そして、『人生は甘美である 谷丹三作品集』
記事:幻戯書房
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8年前、2014年のことだった。7月の刊行をめざし、『詐欺師の勉強あるいは遊戯精神の綺想 種村季弘単行本未収録論集』の編集を進めるなかで、編者の齋藤靖朗さんと、神田猿楽町のLという喫茶店で、打ち合わせをしていた。初夏、5月だったと思う。打ち合わせの内容は憶えていないが、別件で話したことがあった。翌年1月から刊行を開始する「銀河叢書」のラインナップに、齋藤さんの知恵を借りたかったのだ。
「銀河叢書」は刊行の辞で《星が光年を超えて地上を照らすように、時を経たいまだからこそ輝く言葉たち。そんな叡智の数々と未来の読者が出会い、見たこともない「星座」を描く――》と宣言した。そんな「銀河叢書」のラインナップにふさわしい企画を、齋藤さんならもっているはずだと、ふんだからだった。齋藤さんは、博覧強記・種村季弘の弟子だ。
齋藤さんの口からはすぐに「谷丹三」という名が出たと思う。《しきりに谷丹三を読み返したく思う》とは種村季弘の言で、俄然、私も興味をもった。そして齋藤さんは、種村季弘が「朝日新聞」(2002年8月4日)の読書欄に書いたコラムのことを教えてくれた。
ギリシャや中世の騎士物語が好きだった牧野信一は、井伏鱒二や坂口安吾などの友人を集めて騎士団ごっこのようなことをしていた時期がある。そのメンバーの一人に、よく谷円三と誤植される谷丹三という作家がいた。わたしはたまたままだ焼け跡の残る新宿で、この人のハワイ人の奥さんがやっている飲み屋でご当人を見かけた。
牧野信一の再評価につきあって、その話を若い人の前でしたら、若い文学研究家のS君が戦前の「三田文学」から戦後の文学雑誌までを渉猟して、十数編の谷丹三作品をコピーしてきてくれた。おまけに埴谷雄高と坂口安吾の谷丹三論。これを一人で愉しんでいてはもったいない。さてどう世に出すか。S君と思案中だ。
(「未知の顔にあいまみえるか」)
「S君」とはもちろん齋藤さんのことだ。この種村季弘のコラムの本題は『牧野信一全集』(筑摩書房)だったにもかかわらず、その紙面の三分の二を「谷丹三」の話が占めていたと、齋藤さんは書いている(「書物の未明1 観察と断片」 「未明01」2017年3月30日)。
牧野信一については、池内紀さんに『西部劇通信』や『鬼涙村』の面白さを教えられていた。種村季弘は「牧野信一がのこした課題を引き継いだ昭和作家」として、坂口安吾、石川淳、井伏鱒二、三島由紀夫、花田清輝とともに、谷丹三の名を挙げていたという。そんな牧野信一の弟子、谷丹三に、私はますます興味を抱いた。そして、齋藤さんが発掘してきた、現状入手し得る小説、随筆、批評など谷丹三作品のコピーを、私も読ませてもらうことになった。
そのコピーは、「三田文学」「生活」「紀元」「新文学」「新小説」「法政文学」「近代文学」「一座」「ポリタイア」に掲載された作品で、1933(昭和8)年から1971(昭和46)年に発行された雑誌のものだった。先の種村季弘のコラムの引用における坂口安吾と埴谷雄高の谷丹三論のコピーもあった。坂口安吾は「谷丹三の静かな小説 ――あわせて・人生は甘美であるという話」(「三田文学」1934年3月1日)、埴谷雄高は「谷丹三のこと」(「海」1980年1月)。
印象としては、谷丹三自身の《まず、人生の最大のたのしみがまるで、外国の、とある町のすみっこで、こっそり、ケンビ鏡的に、営まれているような感じになった。私にとって、それは、馬の尻にたかる一匹のアブですらない》(「西洋私小説論」 「法政文学」1954年7月)という言葉が、その作品世界にも当てはまるようだった。傑作とか、そういう感想ではなくて、捨て置けない作品群と、私はつよく感じた。
そして、坂口安吾「谷丹三の静かな小説」の《谷丹三の言うように、作品の底を流れ、観察に道を与えるこの思想の光を、まず何をおいても養わねばなるまい。私はドストエフスキーもバルザックも決してそれほど怖れるには及ばないということを大胆不敵にもこのごろ考えだしたのである》といった言葉や、埴谷雄高「谷丹三のこと」の《「三田文学」に坂口安吾は『谷丹三の静かな小説』という文章をのせている。また、浦和高校から東大仏文へ進んだ谷丹三が浦和高校時代その校友会雑誌に書いた作品を同じ浦和高校にいた武田泰淳がほめていたことを私達は知っている。批評家に認められなかった彼の諷刺小説が同時代の作家達に認められ期待されていたことは、その不吉な薄暗い星にさしかけられたところのささやかな栄光である》という言葉が、私の背中を押した。一冊の、本というかたちに残したいと、思ったのだ。
企画会議に諮り、社長のゴーサインが出た。まずは著作権継承者の承諾を得る必要がある。2018年11月(なんやかや4年もかかってしまった)、齋藤さんに訊くと、自身のホームページに谷丹三のことを書いたとき、2005年10月に、谷の孫を名乗る人物からメールがあったという。しかし、そのアドレスに連絡してみたが、もはや使われていなかった。
それから、社のホームページとブログに、谷丹三の著作権継承者の情報を求める告知を出した。私は別の仕事を進めながら、さらに2年の月日が過ぎ去った。その間も齋藤さんは、新たに発掘した谷丹三の作品のコピーを随時、私に預けてくれた。
2020年10月、機は熟した、というより、谷丹三作品集に集中できる時間ができた。著作権継承者が不明の場合、著作権法の規定に基づき、文化庁に「裁定申請書」を提出し、長官の裁定を得て、補償金を預けることで、その著作物を「利用」できる制度を知った。
私は文化庁に問い合わせた。ここからがまた、長かった。まずは公益社団法人著作権情報センターのウェブサイトに、「権利者を探しています」という広告を掲載する必要があった。11月、これを掲載した。翌12月、裁定申請書に必要事項を記入し、文化庁に提出した。担当のかたのチェックがこまごまと入った。「相当な努力」を行ったことを「疎明」する資料を求められた。「疎明」という言葉を初めて知った。
「相当な努力」とは、たとえば、「三田文学」の編集部に電話をかけ、87年前、1933(昭和8)年の掲載作品「遺恨」「センチメンタリズム」「帰りたい心」について、編集部にその経緯と、谷丹三の「連絡先」を聞くことだった。87年前のことである。電話口に出たかたには誠に申し訳なかったが、不審者と思われたことだろう。私自身、自分が何をしているのか、意識が遠のくような体験だった。しかし「三田文学」はまだ存在しているからいいが(いいのか?)、かつて「新小説」を発行し、現在は「Web新小説」を配信する春陽堂の編集部や法政大学に谷丹三の連絡先を聞いたときは、先方も押し黙り、私も黙ってしまって、長い(私には永遠に感じられた)沈黙に、なんとも気まずい思いをした。当事者の私がそうなのだから、何の予備知識もない先方はなおさらだったろう。この場を借りてお詫び申し上げます。
兎も角、そんな「相当な努力」を「疎明」する資料を12月22日に仕上げ、これを添付し、正式に「裁定申請書」を提出して、文化庁からの連絡を待った。よし、年内に着手するぞ、との決意が、もくもくと湧いてきた。
しかし、年は明けた。1月も文化庁の裁定は届かず、私は別の仕事に着手した。裁定が届いたのは2月末だったか3月だったか、私はもうすっかり別件に没入していたので、文化庁から届いたその封筒は放置されることになってしまった……。
さらに1年が経ち、翌2022年4月、ようやく谷丹三作品集に集中できる時間が戻ってきた。文化庁長官の定める著作権使用料としての補償金を東京法務局に「供託」し、晴れて具体的に仕事を進められるようになった。以後は純粋に、編集に集中できた。刊行まで2ケ月を切っていたが。
タイトルは『人生は甘美である 谷丹三作品集』と決まった。メインタイトルは、坂口安吾の「谷丹三の静かな小説 ――あわせて・人生は甘美であるという話――」から採った。当初は「銀河叢書」の一冊と考えていたが、オリジナルの単行本として出すことになった。
時間のないなか、その静かな作品集を、緒方修一さんが素敵な装丁で包んでくれた。充実した解説を齋藤さんが書いてくれた。埴谷雄高は《諷刺小説》と書いていたが、2022年のいま見える景色としては、斎藤さんの言葉が、文字どおり腑に落ちる。
《ボードレールからスウィフトという流れを考えれば、理性に基づく諷刺よりも、理性をも疑うアンドレ・ブルトンの「黒いユーモア」に接近しているとみたほうが腑に落ちる》
ちなみに谷丹三の東京帝大仏文科の卒論は「ボードレールの作品中に於ける匂いの言葉の研究」だ。
谷丹三の作品集はもちろん、本書が史上初めての一冊だ。種村季弘と齋藤さんの出会いがあった。牧野信一、坂口安吾、中原中也、埴谷雄高、武田泰淳らがいたその文学史のひとつの線上に、『人生は甘美である』を上梓した幻戯書房もいる。
谷丹三は書いている。
描写に専念しているが、いつも激しい情炎につかまっているから、視覚像がデフォルメし、狂気に近い想像が交ってくる。
日本文学史上かくも自由で稀有な文学体験を、本書で味わってほしい。そう、まずは理性を疑って。
(幻戯書房編集部・田口博)