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92歳で生前最後の短編集を発表した作家、ロジェ・グルニエとは? 『長い物語のためのいくつかの短いお話』

記事:白水社

短篇小説の名手による、生前最後の短篇集! ロジェ・グルニエ著『長い物語のためのいくつかの短いお話』(白水社刊)は、人生の旨味と苦味と可笑しみを洒脱な筆致で描く傑作短篇集。「ある受刑者」「サンドイッチマン」「記憶喪失」ほか全13篇。
短篇小説の名手による、生前最後の短篇集! ロジェ・グルニエ著『長い物語のためのいくつかの短いお話』(白水社刊)は、人生の旨味と苦味と可笑しみを洒脱な筆致で描く傑作短篇集。「ある受刑者」「サンドイッチマン」「記憶喪失」ほか全13篇。

ロジェ・グルニエ(Roger Grenier 1919 - 2017) パリ、2014年 [original photo: Augusto Starita / Secretaría de Cultura de la Presidencia de la Nación – CC BY-SA 2.0]
ロジェ・グルニエ(Roger Grenier 1919 - 2017) パリ、2014年 [original photo: Augusto Starita / Secretaría de Cultura de la Presidencia de la Nación – CC BY-SA 2.0]

 ノルマンディのカーンで生まれたロジェ・グルニエは、少年時代をポーで過ごし、後年、ピレネー山麓のこの町を、代表作『シネロマン』『黒いピエロ』をはじめ多くの小説の舞台にする。バカロレア取得後、監督教師をしながらいくつかの大学に通い、パリではガストン・バシュラールについたという。1944年のパリ解放闘争に加わり、その後、『異邦人』(1942)の作者アルベール・カミュの知遇を得て、カミュと批評家パスカル・ピア(1903─1979)が仕切っていた《コンバ》紙の一員となる。こうしてジャーナリズムの世界に入り、その後、いくつかの新聞社やラジオ局で働いた。本人の表現を借りるならば、「三面記事ジャーナリスト」(『パリはわが町』「セバスチャン=ボタン通り五番地」)として生きていく。たとえば、ヴィシー政府の軍事組織「フランス民兵団」を率いたジョゼフ・ダルナン(1945年に死刑)など対独協力者の裁判を、司法担当として徹底取材しており、これがやがて処女作の評論『被告の役割』(1949)ともなった。ガリマール書店の「希望」シリーズの1冊で、カミュが監修している。

 

【著者動画:アルベール・カミュを語るロジェ・グルニエ(L’OBSフランス・オプセルヴァトゥール)】

 

 グルニエは、書くことが好きだった。書くことに、自己の存在理由を見いだしていた。両親が買い取った「みじめな映画館」(もちろん『シネロマン』の舞台だ)のプログラムも書いたし、学生新聞にも書いた。兵士としてマルセイユにいた時には、娼婦たちの手紙も代筆したらしい。「結局のところ、いつだってわたしは書記なのだった」(『書物の宮殿』「文学好き」)と、ジャーナリストになった自分について述べているのだが、これはグルニエの短篇や長篇にもあてはまる。あの、やや突き放したような淡々とした筆致は、「書記」のスタイルだと思う。

 若い頃にはゴーストライターもしていた。「著名な美容整形外科医」の回想を代筆したらしく(『書物の宮殿』「待つことと永遠」)、短篇「美容整形」は、この取材の産物なのであろう。邦訳では『フラゴナールの婚約者』に収められているが、そもそもは『沈黙』(1961)という第1短篇集の作品なのである。こうしてグルニエは、自分の経験を虚構として書き記すことに、情熱をかたむけていく。後年の『編集室』にも、若いジャーナリスト時代の経験がフィクションとして物語られている。

 

【著者動画:ロジェ・グルニエ『書物の宮殿』を語る、2011年】

 

 ジャーナリスト時代の思い出といえば、去年出た、決して厚くはない遺文集(Les deux rives, Gallimard, 2022)に次のようにある。1961年7月1日にセリーヌが死去して、ごく内輪で葬儀が行われ、グルニエは《フランス・ソワール》紙の記者として取材した(参列者はマルセル・エーメ、ロジェ・ニミエなど)。そして4日には、最晩年のアイザック・ディーネセンことカレン・ブリクセン(1885─1962)──横山貞子の名訳『アフリカの日々』『七つのゴシック物語』など──をパリのホテルに訪ねてインタビューしている。ところが、セリーヌの死の翌日には、合衆国でヘミングウェイが猟銃自殺した。そこでグルニエは、セリーヌの記事を書きあげると、ただちに大西洋を渡ってアイダホ州のケチャムに直行、追悼のミサをラジオ用に収録したという。オーソン・ウェルズなど映画関係者もいたとのことだが、それにしても、ジャーナリストとしての多忙さに、そしてまた、取材対象が大物ばかりであることに驚かされる。

 やがてガリマール社に入り、後半生は、この名門出版社の編集顧問として活躍する。その前後から、『待ち伏せ』『冬の宮殿』(共に未訳)など長篇を書くようになり、ポーを舞台としたほろ苦い青春小説『シネロマン』(1972)で「フェミナ賞」を受賞する。わが国ではあまり知られていないものの、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』やサン=テグジュペリ『夜間飛行』が、グルニエの少し前にはユルスナールの『黒の過程』が受賞した、由緒ある文学賞である(今世紀に入ってだと、ンディアイ『ロジー・カルプ』、シャンタル・トマ『王妃に別れをつげて』、パトリック・ドゥヴィル『ペスト&コレラ』など)。

 わたしは観ていないが、『シネロマン』はテレビ映画にもなったというから、原作もかなり売れたのだろう。後年の作品では、拙訳がある愛犬エッセイ『ユリシーズの涙』もかなり版を重ねたようだ。とはいえ、これらは例外で、彼はお世辞にも売れる作家とはいえない。わたしはパリの巨大書店に行くと、かならず文学書のGの棚をのぞくようにしていたが、グルニエの本は、新刊を除けば大して並んでいなかった。にもかかわらず、自社すなわちガリマール書店から、ぽつりぽつりと作品を出し続けたのが、グルニエという作家だ。ガリマール社は多くの物書きを擁しているのだろうから、こうした特別扱いを受ける書き手もかなりいそうな気がする。むろん、本当のところはわからない。

パリの大型書店のひとつ、ソルボンヌに近いジベール・ジョゼフ、2017年[original photo: ActuaLitté – CC BY-SA 2.0]
パリの大型書店のひとつ、ソルボンヌに近いジベール・ジョゼフ、2017年[original photo: ActuaLitté – CC BY-SA 2.0]

 ともあれ、彼自身はあくまでもジャーナリスト・編集者としてなりわいを立てながら、文学を書いていくのが、自分にはベストだと考えていたに相違なくて、そのような人生をまっとうした。ガリマール社では、所狭しと本が並ぶ書棚に囲まれた狭い部屋を確保していて、最晩年まで、毎日のように、近くの自宅から通っていたという。

 ガリマール社で顧問として重きをなした彼は、長年にわたり、持ち込み原稿の審査にあたっていた。このことにまつわる興味深いエピソードをひとつ。

 ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』(1955)は、わが国でも、澁澤龍彦の翻訳でよく知られている。わたしもバタイユ『マダム・エドワルダ』などとともに、河出書房の《人間の文学》シリーズで読んだ口だが、ポーリーヌ・レアージュなる作者の正体は長らく不明であった。かつてジャン・ポーラン(1884─1968)の恋人だった女性作家ドミニック・オリー(1907─1998)が真の作者だと公表されたのは、彼女の最晩年のことにすぎない。

 

【ドミニック・オリー、1966年の動画】(ポーリーヌ・レアージュ名義で『O嬢の物語』を書いたドミニック・オリーは、出版から40年経って、自分が作者であると公的に認めた。グルニエは彼女の正体を知っていた)

 

 ところがグルニエは、ガリマール社の「出版原稿選定委員会」でオリーといっしょだった。ある日、出版候補に挙がったポルノグラフィーに関して、某委員が「これは『O嬢の物語』より良いね」と発言した。もちろん、オリーが作者だとは知らずに。すると彼女が「わたしがいるのに、ひどいわ」とつぶやいたという。先ほどの遺文集には、1986年のできごととして書かれている。

 ジャーナリスト上がりの編集者たるグルニエは、文壇の表にも裏にも通じていただろうし、そうしたスタンスから書いた、思い出の作家たちのポルトレや逸話集もある(邦訳はない)。17世紀にタルマン・デ・レオーという作家がいた。宮廷人や文学者などの素顔を伝える回想録『逸話集』で知られる。ガリマール社のプレイヤード叢書に入っているから、多読家のグルニエならば目を通しているかもしれない。フランスには、こうしたジャンルの伝統が息づいている。ただし、グルニエの筆致はタルマン・デ・レオーのようにいじわるではなく、むしろさりげない。

 長篇『シネロマン』で知名度を上げたとはいえ、彼は本質的に短篇作家であった。実際、後期の『黒いピエロ』や『六月の長い一日』は「ロマン[roman]」と銘打ってはいるものの、決して長篇とはいえない。失意の人々、必ずしも人生がうまくいかない人々の心のうちに「書記」として寄り添い、その人生のひとこまを、短篇で、せいぜい中篇で、ぷつんぷつんと物語ることを続けた。「作家はごく普通の新聞記者のようなものです」(『チェーホフの感じ』)という、崇拝する短篇作家チェーホフのことばに、彼はずいぶん励まされたにちがいない。そして、百篇以上の短篇を残してくれた。 

 

【ロジェ・グルニエ『長い物語のためのいくつかの短いお話』(白水社)所収「訳者あとがき」より】

 

ロジェ・グルニエ『長い物語のためのいくつかの短いお話』(白水社)目次
ロジェ・グルニエ『長い物語のためのいくつかの短いお話』(白水社)目次

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