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伝染病・震災・戦争 無関心や忘却もまた災厄 作家・小野正嗣〈朝日新聞文芸時評20年3月〉

黒坂祐 夜から朝までの間

 新型コロナウィルスの世界的な感染拡大によって僕たちの日常生活にも大きな制約が生じている。どうしても伝染病や戦争など災厄を主題にした文学作品に目が行ってしまう。

 いま、フランスの作家アルベール・カミュの傑作『ペスト』(宮崎嶺雄訳、新潮文庫)を読んでいる人は多いのではないか。フランス植民地下のアルジェリアの町オランに謎の熱病が発生する。主人公の医師リウーはそれが何かすぐに気づき治療に奔走するが、当局がこの病気を「ペスト」と認めるのは、おびただしい数の死者が出たあとである。

 「ペスト」が宣告されるや、オランの町自体が「隔離」され、住民は一種の「監禁状態」に置かれる。日常生活は完全に麻痺(まひ)する。海水浴が禁止され、あまりの死者に葬儀すらできない。閉鎖された家屋が略奪・放火される。この光景には奇妙な既視感を覚えはしないか……。

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 極限状態に置かれた人間の絶望やおぞましさを示すそうした細部を描くために、カミュが参考にしたにちがいない本がある。デフォーの『ペストの記憶』(武田将明訳、研究社)である。デフォーといえば、誰もが無人島の漂着者『ロビンソン・クルーソー』を思い出すだろうが、この世界文学の必読作家は、1665年にイギリスで大流行し、膨大な数の死者をもたらしたペストについての架空の記録文学を残しているのである。

 架空というのは、原著の刊行が1722年であるように、このペスト禍をデフォー自身は経験していないからだ。その時期にロンドンに暮らしていたという人物が語り手となり、自身も含めてこの疫病に翻弄(ほんろう)される人々の姿をいま目の前にしているかのような筆致で報告する。

 行政による強制的な隔離、感染者の監視、死体の処理などの施策、失業者の増大による経済の停滞などが統計を援用しながら巨視的に描かれると同時に、大挙して地方に逃れる人々、病魔に蝕(むしば)まれ悲惨な死を迎える病人たち、感染の危険にもかかわらず買い物に出かける市民の姿が等身大で描き出される。そうした行政と個人のふるまいはときに恐怖を、ときにおかしみを感じさせ、災厄に直面した社会の混乱が伝わってくる。

 さすがに「報告」という形式を取る虚構だから可能なのだと思うが、語り手はペストに曝(さら)されたロンドンで何が起きているのか好奇心を抑えきれずに外に出かけてしまう。丘の上からテムズ川を眺めると、びっしりと何百隻もの帆船で埋め尽くされている。陸から離れていれば感染から逃れられると、船上で多くの人々が避難生活を送っている……。

 え? かえって感染の危険が高まるのでは、と現在の読者は思うだろう。実際、本書の訳者で、『ロビンソン・クルーソー』(河出文庫)も新訳した英文学者の武田氏によれば、この部分はデフォーの創作の可能性が高いらしい。創作の部分が強烈な印象を残すのは不思議だ。

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 武田氏は「訳者解題」のなかで、行政の発表する数値に一喜一憂する市民の姿、ペスト感染者(被災者)に対する差別や受け入れの拒否、風評被害など、デフォーの描く300年前のイギリス社会が、2011年3月11日の東日本大震災と原発事故のあとの日本社会の光景と重なると指摘している。

 仏文学者の中条省平もまた、『100分de名著 アルベール・カミュ『ペスト』』(NHK出版)のなかで、この小説における「ペスト」という災厄は、災害や戦争など「人間から自由を奪い、人間に死と苦痛と不幸をもたらすものすべての象徴」であると指摘し、震災や原発事故を経験した僕たちの社会にとってこの作品が持つ普遍的な価値を明らかにしている。

 2011年3月は、中東のシリアで民主化を求める市民運動が活発になった時期である。しかしその後この国を襲った人災、内戦による破壊と殺戮(さつりく)は想像を絶する。

 シリア出身の女性作家サマル・ヤズベクの『無の国の門』(柳谷あゆみ訳、白水社)では、命の危険を顧みず亡命先のパリから三度にわたって母国の北西部に帰還した語り手が、政権軍の空爆に曝されながら苦難の日々を送る反体制派の人々を訪れる。

 壊滅した町、破壊された建物、ぐちゃぐちゃの死体、手足を失った人々。凄惨(せいさん)な死と破壊の光景。だがこの勇気ある女性は目をそむけない。ただ書くことよって、自分が出会った人々の〈生〉を記録・記憶する。

 爆弾や放射能やウィルスだけではない。無関心や忘却もまた人間の自由を奪う恐ろしい災厄なのだ。=朝日新聞2020年3月25日掲載