医学と宗教が共に問う「人間とは何か?」――杉岡良彦著『共苦する人間』は医学と宗教の協働を探る(後篇)
記事:春秋社
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本書では西洋医学との関わりが強いキリスト教が多く取り上げられている一方で、新宗教における「病気治し」を支える理論についても詳細に検討した(第9章、第10章)。なぜなら、この作業を通じて、宗教と医学の関係をめぐるいくつかの論点が明確に浮かび上がってくるからである。具体的には、いわゆる「手かざし」で知られ、宗教者でありながら積極的に治療に関与しようとした人物として岡田茂吉を取り上げた。また、第9章では哲学者でクリスチャンでもあった滝沢克己(1909‐1984)の岡田に関する論考を参照した(『現代における医療と宗教――身心論をめぐって』1991年)。
特に本書で問題としたのは、手かざし(浄霊)の効果に関する岡田の主張と実際の効果の乖離であった。EBM(Evidence-Based Medicine)の観点からすれば、疼痛に対する鍼治療効果の論文がすでに多く公開され、鍼治療は医学の中でも一定の位置を占めているように、手かざしであってもその臨床効果が認められるなら医学はそれを受け入れる態度をもっているのである。それが現代医学における科学的態度である。
ここで、問いたい。「手かざし」の問題点は、そもそも宗教が医学にかかわろうとした点にあるのだろうか。それは宗教と医学が「棲み分け」により激しい対立をさけてきた状況において、両者の境界線を破って医学の側に宗教者が侵入してきたことがそもそも問題なのだろうか。
この疑問に答えるには、宗教と医学が目指すものは何かという「実現すべき価値」の問題が関わってくる。詳細な議論は本書(特に11章)に譲らざるを得ないが、例えば精神科医のフランクルは、宗教と精神医学が目指すものが、前者は「魂の救済」であり、後者は「心の治療」であると考えた。しかし、両者は無関係ではない。宗教的関わりが、意図せざる結果として、「心の治療」をもたらすこともあれば、精神医学的治療が、意図せざる結果として、患者の「魂の救い」をもたらすこともあるという事実をフランクルは正しく指摘した。そして本書では、フランクルの理解を拡大し、身体的治療を含めた医学的介入が、これも同様に意図せざる結果として、魂の救いに至る可能性についても言及した。
つまり、宗教の第一の目標と医学の第一の目標が混同されるとき、両者の関係に対立や混乱が生じる。宗教的関与と医学的介入は関連しあうが、両者はそれぞれ固有の対象や方法、あるいは治療的根拠(癒しの源泉)を有するのである。
神学者のP.ティリッヒは心理学や精神医学にも強い関心を示し、神学との関わりを論じている(邦訳『宗教と心理学の対話』2009)。彼は「最高の癒しの力は信仰のそれである」と述べ、ミサの暗示力、病床の傍らに立つ牧師の暗示力などの様々な要素が「無意識へと沈み込み、効果を及ぼす」(同、35頁)と、指摘した。このことは、宗教と医学が関与する人間存在の多元的な理解と深く関わるのである。それは人間観の問題である。
いったい、医学は人間をどのように理解するのだろうか。そもそも現代医学は、かつての生物学的人間観にとどまらず、G.エンゲルに代表される「生物心理社会モデル」を採用している。これは人間を、生物、心理、社会という包括的な観点から人間を理解しようとすることを示している。さらに、昨今の緩和ケアでは、全人的苦痛として、スピリチュアルペインも重視する。とすれば、現代医学は、生物、心理、社会、スピリチュアルというより包括的な人間理解を受け入れているのである。ただし、医療での「スピリチュアル」という表現は人間が必ずしも宗教的であるという意味ではなく、そもそも病気や苦しみの「意味を問う存在」であることを指す。
著者は、医学という文脈の中においてであれば、こうした人間理解で、十分であると考えていた。しかし、人類は長年にわたり宗教に関わり、「宗教的癒し」を体験してきた。現在でも、祈りによって、サクラメントによって、聖なる場所を訪れることによって、深い安らぎや苦しみからの解放を感じる人はたくさんいる。この事実を謙虚に受け入れるなら、われわれは宗教的癒しを可能とする人間の意識をこえた領域――それは無意識の領域とも「いのち」の領域ともいえる――を否定できないのではないか。ちょうど、内分泌ホルモンが全身に分泌されても、それを受け取る「受容体」がなければそのホルモンの作用が認められないように。「生物心理社会‐スピリチュアル」という人間理解は人間的介入可能な領域をわれわれに明らかにしてくれる。しかし「宗教」という視点を考慮するとき、人間ではなく、超越的存在が働きうる領域として無意識や「いのち」とも表現できる領域をふくめた人間理解をわれわれは受け入れてよいのではなかろうか。本書の第7章は宗教と医学に共有可能な人間理解の可能性を提示した。
次に、倫理的な問題を考えたい。医療現場においては、さまざまな治療を試みるも、閉眼したままで言葉を発することもできず、問いかけにも何も反応せず、寝たきりとなった患者さんに出会う機会も多い。あるいは脳の器質的異常や精神疾患のために理性的判断が困難となった患者さんもいる。そのような患者さんに接する際に、医療者はどのような態度をとればよいのだろうか。
西洋における人間理解では伝統的に理性が重視されてきた。人間とは「理性を有し、道徳的行為が可能な存在である」と考えられる傾向が強くある。では、寝たきりで意識もなく、ただ点滴をつながれて生きている人間や脳死者、あるいは脳の器質的疾患や精神疾患で理性が十分働かないと思われる患者は、人間とは言えないのだろうか。いったい、人間である根拠は何であろうか。宗教と医学の関わりで興味深いのは、医療倫理を牽引した一人、J.フレッチャーが米国聖公会の牧師でもあったことだ。生命倫理学者で科学哲学者の小松美彦は『生権力の歴史』(2012)という優れた著書のなかで、フレッチャーが「尊厳のうちに死ぬ権利(right to die in dignity)」という表現を用いたことを指摘し、人間の尊厳が理性の有無によって判断されている点を指摘した。さらに小松は、生命倫理学者のエンゲルハートによって尊厳は「脳」に還元されたことを批判する。こうした議論を踏まえて、本書ではV.フランクルの議論を参照した。
心身の有機体と精神を明確に区別するフランクルは「病気になるのは、この心身的なものであって、精神ではない」(『制約されざる人間』2000、110頁)と理解する。彼によれば、精神的人格が病むように見えるのは「人格の働く場であり、また人格の表現の場」でもある有機体がひどく障害されることで「人格への通路が埋められてしまう」(同、113頁)ためなのである。精神的人格は病まない。だからこそ、彼はどのような状況であれ、医療者は患者を尊厳ある人間として扱わなければならないと考える。そして、彼は精神科医の信条が「精神的人格への無条件の信頼、「見えない」けれども破壊されることの無い精神的人格への「盲目的」信仰」(同、113‐114頁)であると述べる。(『共苦する人間』231頁)
マザー・テレサは、病む人々、社会から無視され、見捨てられた人々に奉仕した。「病人や貧しい人のお世話をする時、私たちはキリストの苦しんでいる体のお世話をしているのです」(本書、237頁参照)という彼女の言葉は、フランクルの破壊されることの無い人格への信仰と共鳴する。
宗教と医学は歴史的には不可分の関係にあった。そして近代科学は両者の関係を分離したように見えるが、果たしてわれわれはこうした理解に留まっていてよいのだろうか。両者は無関係な領域なのだろうか。われわれは宗教と医学の「無関心な棲み分け」という理解で満足していてよいのだろうか。本書はこうした問いに挑戦した。そして、宗教的背景をもちながらも実際の医療で受け入れられている治療法や、科学的研究結果を重視しながら、できるだけ具体的に、両者の関係について論じた。
前篇で言及したように、戦後日本人は公的機関で宗教を語ることをよしとされず、戦前(明治以降)は軍国主義によって神道が利用されたという、きわめて特異な状況の中で生きてきた。また宗教がかかわった様々な社会問題は、われわれに宗教への否定的な感情を植え付けた。しかし、こうした偏見を見直し、宗教の問題を心の中の問題として私事化することから解放されて、医学との関わりにおいても宗教を論じるべき時代にわれわれは生きているのではないか。それは両者を混同することでは決してない。両者の関わりを考えることを通じて、医学とは何か、宗教とは何かという哲学的問題が、新たな視点で浮かび上がってくるのではないか。
本書で取り上げたテーマは多岐にわたるが、最後の381‐382頁をまず読んでいただいてから、関心あるテーマについてお読みいただくのが良いかもしれない。今後、この分野の研究がさらに拡大し、深化していくことを期待している。その際に本書が、多くの研究者やこの領域に関心を持つ方々にとって、一つの捨て石としての役割を果たすことができれば幸いである。