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アメリカの被ばく者:実験と分断の核の時代

記事:明石書店

ケネディ大統領によるハンフォード訪問 1963年
ケネディ大統領によるハンフォード訪問 1963年

アメリカにおける被ばく

 原爆の後遺症に長くさいなまれ早逝した自身の家族・親族のことを思う時、彼らが健康や人生における様々な機会を失ったことに対して怒りと悲しみを感じていた。2011年の福島の原発災害後、そして2020年に友人でもありハンフォード被ばく者裁判の原告でもあったトリシャ・プリティキンの本『黙殺された被曝者の声:アメリカ ハンフォード 正義を求めて闘った原告たち』を読んだ際にも、同じような怒りと悲しみを再体験した。

 『黙殺された被曝者の声』は24人の原告の証言と、彼らが政府の下請け企業に対して起こした裁判に至る経緯と、その結果からなる本である。ハンフォードは、マンハッタン計画の三大拠点地――ニュー・メキシコ州のロス・アラモス、テネシー州のオークリッジ――の1つで、長崎原爆のプルトニウムが製造され、その後の冷戦で「国防の要」と考えられた核兵器製造のため、プルトニウムを製造し続け、そのための電力としての原子炉も抱える場所だ(今でも同州の大都市シアトルに電力を送っている)。だが、ハンフォードの被害は、その稼働時、広島・長崎の原爆攻撃以前の1944年末から始まっていたのだ。

 翻訳するにあたり、何度も読み返すうち、2つの突出する事実に気づいた。1つは「核の時代」は壮大な実験の時代であったということ。そしてもう1つは「核の時代」は分断を拡大し、再生産し続けるということだ。

長崎原爆のプルトニウムを作ったB原子炉
長崎原爆のプルトニウムを作ったB原子炉

実験による犠牲

 まず1つ目だが、ワシントン州東部にハンフォード核施設を建設するにあたり、アメリカ政府は先住民の土地を奪い、白人農家の土地を安く買い叩いたが、当時すでに事故などを起こした際の放射性降下物の懸念は、このプロジェクトの推進者に共有されていた。つまり、土地を奪っただけでなく、そこに住む先住民の人たち、農家の人たちの健康を害する懸念は十分考えられていたにも拘らずマンハッタン計画のもと、施設の建設は始まった。その上、政府は積極的にハンフォード近隣への移植を進め、第二次世界大戦の退役軍人を中心に土地を安く割譲した。この中には多くのモルモン教徒が含まれていた。モルモン教徒は今でこそ、大統領候補を出すほど認められてきたが、当時はまだ迫害も多くある時代だった。ネバダ核実験場からの放射性降下物の通り道であったユタ州も、モルモン教徒が多く移住していた場所だった。本書の証言者の一人は、モルモン教徒はその教義により飲酒や喫煙をしないために、格好の実験材料だったに違いないと証言している。

 アメリカ全体で数多くの放射線による動物及び人体実験の報告があるが、ハンフォードの実験として、おそらく一番知られているのは、1949年12月のグリーン・ラン実験だろう。これは、当時のソ連がどれだけ原爆を作っているか調べるため、それまで90日冷却していた放射性廃棄物を、ソ連と同じように約16日で大気中に排出する、という実験だった。原爆開発を急いでいたソ連は、放射性物質の濃度は高くなるが、冷却時間が短いことで開発を進められると考えていた。アメリカ側は同じように高い濃度の放射性廃棄物をハンフォード核施設から排出してその量を測ることで、ソ連の原爆開発の内情が推測できると考えた。通常より「若い」(グリーン)廃棄物を出すため、この実験はグリーン・ランと呼ばれた。しかし、この実験によりワシントン州東部、そして州境を越え降り注いだ放射性降下物は多くのホットスポットを作った。

 その後も放射性廃棄物は排出され続け、ハンフォードでは動物実験も行われていた。近隣住民は「安全」としか言われておらず、そのため政府は自分たちを守ってくれると考えていた。その一方で1944年以来放射線に曝されてきた人々は、家族や身近な人を若くして亡くしたり、がんなどの重篤な病気にかかったり、体の不調に悩みつつも原因が分からないまま40年以上を過ごしていた。ようやく1986年にエネルギー省は、情報公開法により書類の公開に踏み切り、ハンフォードの風下住民は自分たちの健康被害の原因を知ることとなった。

ハンフォードでの羊の実験
ハンフォードでの羊の実験

 こうした事実は「核の時代」において「国が(あるいは核兵器が)自国民を守る」という言説が虚像であることを如実に表しているだけでなく、その言説の上に成り立っている核抑止論をも無効にするものだ。しかし、国の核政策を根本から揺るがすからこそ、彼ら、被ばく者の声は黙殺されてきた。ネバダ核実験場やハンフォードの被ばく者が不可視にされ、国として曖昧な立場に置かれている「テリトリー」(かつてのマーシャル諸島、現在では北マリアナ諸島など)における被害も、アメリカでは国民の共通の意識とはなっていない。

 これは本書の範疇外でもあるが、こうした言説は、婉曲的に「国」というカテゴリーにも疑問符を突きつけるものである。原爆攻撃が往々にして(特にアメリカでは)「アメリカ対日本」という国の枠組みで語られることで、広島・長崎にいた多くの日本の領土、植民地から広島・長崎に来た(あるいは連行された)犠牲者が不可視にされてきた。同時に欧米の植民地支配(長崎で被ばくした「オランダ兵士」はインドネシア人を含んでいたこと)をも不問にされてしまうように。

法に阻まれる連帯

 しかし、これを逆手にとって国の枠組みを超えて被ばく者同士が連帯できないものだろうか。これが2つ目の事実へと繋がる。実は1986年のマーシャル諸島島民への補償法が、アメリカ議会でRECAと呼ばれる「被ばく補償法」(1990年)やEEOICPAと呼ばれる「核産業作業員職業病補償法」(2000年:日本語訳宮本)に繋がっていった。ここでいう核産業には原発も入るが、不十分とはいえこうした補償法が、皮肉なことに連帯ではなく、更なる分断を作ることにもなった。例えばRECAでは、ニュー・メキシコ州のウラン鉱山夫には、働いた年月にもよるが受給資格が与えられている。しかし、同州で世界初の原爆実験であったトリニティ、またはその後のネバダ核実験からの風下被ばく者としては、ニュー・メキシコの一般市民には受給資格がない。また、ハンフォードなどの核施設で働いていた作業員には受給資格があるものの、『黙殺された被曝者の声』に出てくるように、ハンフォード風下にいた一般市民には受給資格がない。そして、この異なる対応を支えている理念は、核抑止論に他ならない。つまり、アメリカの核産業で国の防衛に貢献したと考えられる者には補償する、という考え方が分断を助長する。核産業で市民を傷つけ、それを防衛という名で美化することで、被ばく者同士の連帯ではなく、分断が作り続けられていく。もちろん、こうした流れに逆らって、アメリカの被ばく者も連帯を試みているが、健康に不安があるなか、そう簡単ではない。

ハンフォードの9基の原子炉のうちの1つ、コロンビア川沿いに建つN原子炉
ハンフォードの9基の原子炉のうちの1つ、コロンビア川沿いに建つN原子炉

なぜ今ハンフォードか

 トリシャ・プリティキンの『黙殺された被曝者の声』は、怒りと悲しみを越え、差別に深く繋がっている実験や分断をはっきりと見せてくれる本である。そして、こうした問題がアメリカのみの問題ではなく、日本でも現在進行中であるということも、作者は日本語版の序盤ではっきりと主張している。福島復興の目玉である「イノベーション・コースト構想」がハンフォードをモデルにしていることを考えると、実験や分断が現在も繰り返され、被害を声に出しにくい状況に対し、この本が一石を投じられたらと訳者として願っている。

◆原著者のトリシャ・T・プリティキン氏のインタビュー動画を公開中です
https://youtu.be/7YXLBrYmzY0

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