初めての論考、読み直して再発見した自分:私の謎 柄谷行人回想録⑥
記事:じんぶん堂企画室
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――1965年、東京大学経済学部を卒業し、東京大学大学院人文科学研究科英文学専攻課程へ。フォークナーの研究や翻訳で知られる大橋健三郎さんのゼミに入ります。
柄谷 学部のときに大橋さんの授業を聴講していて、フォークナーも好きだったからね。文学部に入り直すのは面倒だったから、1年留年してから、大学院に進むことにしました。英文科に入ったとはいえ、僕の専攻は実はアメリカ文学なんですよ。当時、アメリカ文学を専攻する人はまだ少なかった。大学院生では、僕1人だけだったんだから。
――原真佐子さん(1939~1995)と結婚したのもこの頃ですね。翻訳家としても活動し、後に「冥王まさ子」の名で文芸賞を受賞する作家でもあります。
柄谷 大学院で知り合ってすぐに結婚しました。彼女は、年が二つ上、学年で言うと一つ上。東京外国語大学の英文科出身で、高校時代には奨学金をもらって1年アメリカに留学していたから、英語は抜群に出来た。
――原さんはなにを研究されていたんですか?
柄谷 シェークスピア研究で有名な小津次郎さんのゼミ生だった。彼女の修士論文はローレンス・スターンですけど、もともとは演劇をやっていて、文学座付属研究所で活動していた。樹木希林さんと同期だったんですよ。樹木さんが家に遊びに来たこともあった。原さんが95年に病気で亡くなったときには葬儀にも来てくれた。また、原さんの演劇仲間で東大大学院に来た女性がいます。のちに、シェークスピア戯曲の全訳をやった松岡和子さんです。2人は福田恒存が文学座を出て作った劇団「雲」の研究生を受けた時に一緒で親しくなったらしい。
――そんな交流もあったんですね。
柄谷 当時は、福田さんもまだ現役でした。会ったことはないけど、彼が僕の「マクベス論」を人づてにほめていたと聞いて、意外でしたね。そんなものを読むとは思っていなかったから。
――シェークスピアは、群像新人賞を受けた「意識と自然―漱石試論」やその後の「意味という病」といった初期の批評でも重要な引用元ですが、そういう環境と関係があるんでしょうか。
柄谷 演劇関係の人とのつきあいは確かに多かったけど、シェークスピアは元々読んではいたね。『マクベス』とか『ハムレット』のような主だったものは中学くらいのときだと思う。
――修士論文はロレンス・ダレル(1912~1990)の代表作で、世界的ベストセラーになった『アレクサンドリア四重奏(カルテット)』を論じたものでした。大学院ではアメリカ文学を中心に学んでいたそうですが、ダレルはインド生まれのアイルランド系イギリス人ですね。
柄谷 それを書いたきっかけは、イギリス人の先生がやっていたゼミに出たことにあります。彼は経済学者で、東大の経済学部に客員教授として来ていた人なんだけど、文学好きで、英文学の教師らと知り合って、英文学専攻でも教えるようになったらしい。僕は大学院に入ったばかりの頃、何気なく彼のゼミに出ました。最初の日、彼は、ダレルの作品について発表をする人はいないかと呼びかけたのですが、誰も応答しなかったので、僕が手を挙げた。なぜかというと、日本語訳で読んでたからね。英文を取り寄せて、という話だったけど、実はもう読んでいたから、楽でしょ?(笑)
そのときは、ダレルの作品を修士論文にするつもりはなかったんですよ。フォークナーでやるつもりだったけど、修論を書く時点になって、ダレルについてならよいものが書ける、と思って予定を変更した。結果的に大橋さんを裏切ることになって、悪かったと思う。彼は怒るかなと思ったけど、怒らなかった。そのあとも、大橋さんはずっと支援してくれた。偉い人ですよ。
――修論の「『アレクサンドリア・カルテット』の弁証法」は、初期論文をまとめた『思想はいかに可能か』に収録されています。
柄谷 あの論文は、ダレルが自分で考えていることとは、まったく違うことをやっているということを書いたものです。彼はこの四部作を、相対性理論にもとづいて、いわば、1章から3章まで空間として、最後を時間として見た。しかし、実際には、見事にヘーゲルの『精神現象学』と同じことをやっている。つまり、第1章は主観的、第2章は反省的、第3章は理性的になっている。そして、第4章は、絶対精神となっている。最後に、once upon a time(昔々)、という感じになる。つまり、絶対精神において、幼児期に戻るわけです。だから、ダレルの作品は、相対性理論というより、ヘーゲルの「精神現象学」に近い、と考えた。
ダレルは博識な男だと思うけど、ヘーゲルのことは知らなかったんだ。しかし、作者が気づいていないようなことを書く、それが批評だと思う。そうすると、みんなが慣れている読み方と全然違うことを言うことになるから、みんなびっくりする(笑)。しかし、僕の修士論文は、さっきいったイギリス人の先生にも激賞されたよ。是非ダレルにこれを送れ、と言ってくれた。絶対に驚くだろう、といって。しかし、僕は送らなかった。そもそも、送り方がわからない。送れって言われても、「どないすんねん」(笑)。そのほうが僕には難しい。いま思えば、送っとけば良かったね。
――大橋さんの反応はどうでしたか?
柄谷 自分の関わっていた雑誌(「季刊 世界文学」)に載せたいと言ってくれた。修士論文で、すぐに原稿料を得た人はいないと思う。大橋さんのおかげです。
――少しさかのぼりますが、大学院2年目の1966年5月、第11回五月祭賞評論部門の佳作として「思想はいかに可能か」が「東京大学新聞」に掲載されます。対外的に発表された最初の文章になりますね。
柄谷 なぜ懸賞論文にしたかというと、それまでの僕のあり方と関わっている。要するに、文学の仲間がいなかった。当時の学生くらいの年代で文学に関心があると、大体同人誌をやっていたんですよ。後に出会う中上健次や津島佑子もそうだった。
――お二人が参加していたのは、「文芸首都」ですね。
柄谷 大学に入ってようやく文学や思想の話が出来る人と出会ったけど、同人誌に入ろうと思ったことはなかった。だから、何かを書いても、発表する場がない。それで、「五月祭賞」を考えた。そのとき、僕は大江健三郎の先例に従った。大江さんは、僕が中学のころに、「奇妙な仕事」で五月祭賞をもらって、世に出たからね。
――柄谷さんが佳作を取ったときの紙面でも、小説の選考委員の小林正(東大教授、仏文学者)が「第二の大江、出よ!」と呼びかけていますね。
柄谷 大学3年になって本郷(キャンパス)に行くようになってから、そこに東大新聞社があることに気づいた。大学の中にあると思っていなかったので、以来、東大新聞と五月祭賞が急に身近になったのです。
――ちなみに、柄谷さんのこのときのペンネームは「原行人」です。
柄谷 原は、亡くなった奥さんの名字だね。「行人」というのは、ふと思いついたんです。便所でね。本名は、「善男」というんだけど、「ぜんなん」でしょ? なめられそうで、嫌だった。かとって、「悪男」にするわけにもいかないしね(笑)。
――いまでは「行人」以外考えられませんが、他に候補はあったんですか?
柄谷 「そうやつとむ」というのもあった。トム・ソーヤから取って。それにしなくてよかった(笑)。いくつか候補があって、それを書いた紙を便所に貼っておいた。最初は「行人」と書いて「ゆきと」と読むつもりで、1969年の群像新人賞に「意識と自然―漱石試論」を応募したときにも、そう書いておいた。だけど、その後なんとなく「こうじん」になったんだな。
――漱石論でデビューしたこともあって、漱石の小説『行人』から取ったと思ってしまいますが。
柄谷 それは違うんですよ。もちろん、『行人』のことは頭のどこかにはあっただろうけれど、最初に使った「思想はいかに可能か」は漱石とは関係ない論文だしね。ちなみに、中国語だと、行人はたんに「歩行者」って意味らしい。台湾に行くと、道に「行人専用」って書いてあったりしてね。僕専用ですよ(笑)。
――「思想はいかに可能か」は、現在同名の初期評論集(インスクリプト発行)に収められています。明晰=三島由紀夫、自立=吉本隆明、成熟=江藤淳と三つの思想のあり方を検討していくという論考ですね。やはり、吉本、三島、江藤は、当時圧倒的な存在感だったんでしょうか。
柄谷 それはそうです。だけど、やっぱり三角形を作るために、構造論的に見てたんじゃないかな。その三つのタイプしかないというように断定しているけど、そんなものわからないよ(笑)。この数日で久しぶりに読み直してみたんだけど、自分の立場はどこにあるのかというと、三つのうちどれかにつくとか、そんなじゃないんですね。三つの他にもう一つの観点がある。
――選考委員の小田切秀雄(文芸評論家)は、柄谷さんの力量を認めつつ、「三氏の立場にたいして原氏(編集部注・柄谷さんの応募時の筆名は「原行人」)がほんとうはどういう関係になるのかが必ずしもはっきりしていない、という点が弱い」と書いていますが、それのどれでもないわけですね。
柄谷 そうです。そうでなかったら、並べて書くようなことはしないと思う。三つとは違う観点を本当は考えていた、と思う。
――柄谷さんはエピローグで「だれも一人でこの三極を所有することは出来ない。それは神のようになることであり、つまりは自己幻影に酔うことである」と書いています。
柄谷 要するに、もう一つの立場について、三人と同じようには論じられない。だから、欄外にある、という感じで終わってるんじゃないですか。しかし、今回、これを読み直してみて、自分に関して大きな発見をした。これは、実は近年に自分がやってることではないか、と。何かというと、交換様式です。交換様式にはABCの三つがあって、もう一つがDなんですよ。そんなこと僕は忘れてたけど、同じ構造を繰り返していたのか、と思う。
――浅田彰さんが帯に寄せた文章でも、「柄谷行人の批評の基本構造が現れている」と書かれていますね。
柄谷 そうなんだよ。自分の論文を読み直した後、浅田彰の言葉を読み直して、驚嘆した(笑)。その通りなんだよね。Dの問題はこのときから始まっている。すっかり忘れていたけど、浅田さんはさすがですよ。
――内容に関しても、「思想はいかに可能か」は、「すべて思想の名に値する思想は自己の相対化されるぎりぎりの地点の検証から始まっている」という一文で始まり、最後は「最後に大切な問いが一つだけ残っている。『自分は何者か』という問いが」という結びです。その後の柄谷さんのテーマにも通じますね。
柄谷 反復しているということかもしれませんね。翌年の五月祭賞では「新しい哲学」が佳作になるんだけど、ここでいう「新しい哲学」というのは、別に構造主義とか、当時流行り始めたフランスあたりの哲学ではないんですよ。僕が言いたかったのは、新しいマルクス主義のことです。とはいえ、初期マルクスの疎外論とかそんなものじゃなくて、実は「資本論」なんですよ。ただ、すでに一般的な「資本論」の読み方が史的唯物論を前提にしたものに固まってしまっていたから、「資本論」だと言うと、まず誤解される。
その意味で、僕がいう「新しい哲学」とは、後に書いた『マルクスその可能性の中心』と同じようなものです。さらに、不思議なことに、現在の僕が持っている問題意識とも重なるんですよ。それには驚いた。「思想はいかに可能か」も「新しい哲学」も、いまから思うと気が利いてるな、と(笑)。
――読み返さないから忘れているんですね。
柄谷 僕は自分が過去に書いた本を読むことはまずないんだけれど、なぜか以前書いたことの通りやってるんだね。書いたことを忘れるようにしていた理由もそこにあるのかもしれない。もしそこを引きずったら止まってしまう。止まったら終わりだから。二度とこれについては考えないということになるかもしれない。もちろん、当時は見ていないことも多かった。中身は、いまの僕のほうが前に進んでいると思いますけどね。
(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は群像新人賞に応募した頃の話。盟友中上健次との出会いも。月1回更新予定)