記憶をわかちあう――レコード・ディレクターがつないだ坂本龍一と小沢昭一
記事:春秋社
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詩人の富岡多恵子が2023年4月6日に亡くなったとき、私の所属する大阪大学大学院で昭和時代の大衆音楽に関する博士論文を書いたばかりの張佳能さんが、新聞の訃報欄での故人の紹介に、富岡と坂本龍一のコラボレーションによるLPレコード『物語のようにふるさとは遠い』(ビクター、1977年)の刊行年が「2005年」と記載されていると呆れていた。2005年はこのLPがCD化された年である。LPという音楽メディアが主流であった時代(1950年代~1970年代)を知らない人は、2005年という情報に疑いを差し挟むことはないだろう。この訃報欄を書いた記者が二十代である可能性もあり、そうすると1980年代に一気に普及したCDも、LPと遠近法的には大差がないのかもしれない。
LP『物語のようにふるさとは遠い』を企画・制作したのは、小沢昭一のLP『ドキュメント 日本の放浪芸』シリーズ(全4作、1971~1977)を企画・制作したディレクター、市川捷護さんである。市川さんの回顧録『回想日本の放浪芸――小沢昭一さんと探索した日々』(平凡社新書、2000年)によれば、当初は『日本の放浪芸』シリーズは全3作で完結とされていて、その第3作の刊行後、市川さんが新しい視点から取り組んだのがこのレコードであった。当時、富岡が発言する歌謡曲についての「論点の切れ味の鋭さ」に共鳴していたという市川さんは、いきなり富岡に「レコードを出しませんか」と提案する。自分の直観に従ってすぐさま行動に移すのは、『日本の放浪芸』で小沢昭一を起用したときと同様である。『物語のようにふるさとは遠い』は長らく入手困難だったが、坂本の訃報を聞いた市川さんの発案により復刻発売が検討され、ビクターエンタテインメントが運営する廃盤レコード&CDのオンデマンド複製サービスで発売される運びとなった(VODL61366、LABEL ON DEMAND、https://meg-cd.net/shop/r/r531432/)。その準備中、今度は富岡の訃報を耳にしたのだった。
さて、富岡から「異能」の人とのコラボレーションであれば歌詞を書くと条件を出された市川さんは、「レコード業界以外に重点を置いて探っていったら、坂本龍一という名前があがってきた」ことから、まだ東京藝術大学大学院に籍を置いていた坂本を採用したという。語り物のような富岡の声を載せた坂本の音楽は、この翌年に結成されるイエロー・マジック・オーケストラ(Y.M.O.)の音楽のメロディアスな側面を予告している。ちなみに私が生まれて初めて自分のお小遣いで購入したカセットテープは、Y.M.O.の初アルバム『Yellow Magic Orchestra』(1978年)である(この意味で私はLP末期とCDの間の微妙なカセットテープ世代に属する)。坂本の訃報が届いた2023年4月2日、私の周囲でも彼の死を惜しむ声がSNSや関係学会・研究会のメーリングリストで多く流れてきたが、彼の死に予想外のショックを受けていた私はそれらを共有することができなかった。これは一つに、カセットテープの所有欲と結びついた感情であると思われる。
そうしたなか、唯一、坂本の記憶を共有できたのが、私の著作『掬われる声、語られる芸――小沢昭一と『ドキュメント日本の放浪芸』』の最終作業のためにタッグを組んでいたメンバーである。坂本の訃報の翌日である4月3日、著作に使用する一枚の写真のオリジナルを探すために、私たちは小沢昭一の多くの写真を含む遺品がご遺族によって寄贈された早稲田大学演劇博物館にいた。演劇博物館に集合したのは、その写真を撮影したと推測された小川洋三さん、小沢昭一の仕事のマネージメントをされていた津島滋人さん、そして春秋社の中川航さんである。小川さんは、長く小沢昭一の劇団のプロデューサーを務められた方であるが、『ドキュメント 日本の放浪芸』の芸能探訪では、カメラマンとして小沢に随行したのである。
この日、一通りの挨拶を終えると、すぐに坂本龍一の話が出た。小川さん、津島さんのお二人によれば、芸能座の音楽監督を決める段階で、ビクターの市川さんが坂本を紹介したが、坂本と会って話をした小沢は、坂本を採用するのを見送ったのだという。その理由はおそらく、坂本は劇団に所属するにしてはあまりに世界が広すぎる異なる大きすぎると小沢が見抜いたところにあると、二人はそれぞれ言葉を変えて推測しあいながら話していた。確かにその後の芸能座の傾向は、坂本の世界観とは大きく異なる。とはいえ、一つの劇団のために書いた坂本の作品というものがあれば、聴いてみたかったというのが正直なところである。
大量の写真とネガを特別に閲覧させて頂いた演劇博物館の方々の労力と温情には感謝の言葉もみつからず、寄贈時の仲介に尽力された津島さんの熱い想いにも心を打たれた。仕事を終えて皆で早稲田大学の前のカフェに入ると、坂本龍一のピアノ曲が耳に流れこんできた。私が中学生の時に買った坂本龍一のカセットテープ『Coda(コーダ)』(1983年)である。そうした自分の記憶が、小沢昭一を記憶する人たちの記憶と、坂本を追悼するカフェの店主の記憶と混ざり合って、丸一日の重労働を終えた心身にノスタルジックに沁み込んだ。「コーダ」というのは、曲の終結部を意味する音楽用語である。