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小沢昭一にとっての放浪芸――役者から芸能者へのまなざしが『日本の放浪芸』を生み出した

記事:春秋社

前著『〈雅楽〉の誕生』と『掬われる声、語られる芸』(どちらも鈴木聖子著、春秋社刊)
前著『〈雅楽〉の誕生』と『掬われる声、語られる芸』(どちらも鈴木聖子著、春秋社刊)

 小沢昭一の「放浪芸」なるものに取り組み始めた頃、それまで雅楽の研究をしていた私(参照:拙著『〈雅楽〉の誕生――田辺尚雄が見た大東亜の響き』、春秋社、2019年)を知る周囲の人たちの中には、それこそ私が放浪しているかのような反応を示した人もいた。

 確かに、片や1000年以上続く古典音楽として位置づけられて国によって保護される対象である重要無形文化財「雅楽」と、片や金銭とのダイレクトな交換によって行われる門付け芸や路傍の音楽芸能をひっくるめて小沢が命名した「放浪芸」とでは、真逆のものという印象があるに違いない。例えば、私が2020年春に新しい職場である大阪大学の音楽学研究室に引っ越してきたとき、そこでご一緒することとなった先輩の輪島裕介さんが、「雅楽からストリップまで」と親切にも私の仕事を周囲に紹介してくださったが、この標語(?)が魅力的であるのは、雅楽とストリップの組み合わせが一般的には意外性を与えるからである。20世紀後半には、武智鉄二という異能の評論家・演出家がいて、雅楽や能をふんだんに用いた『白日夢』(原作・谷崎潤一郎)という「猥褻映画」を制作したり、「ヌード能」なる試みを行なったが、伝統的な音楽芸能の世界に対してそうした運動が可能であった時代はもはや過ぎ去っている。ちなみに「ヌード能」については、音楽学研究室の隣の演劇学研究室で、当時博士後期課程の院生であった垣沼絢子さんによる論文「武智鉄二とヌード能」(『フィロカリア』、2020年)がある。

 小沢昭一は、LP『ドキュメント日本の放浪芸』(ビクター、1971年)の原型となる著作『私は河原乞食・考』(三一書房、1969年)で、雅楽やそのほかの伝統的な音楽芸能に触れて、次のように述べていた。

宮中に入った雅楽。武家式楽となった能。「演劇改良」とやらで洗われて、明治大帝の天覧に供した歌舞伎。大政翼賛会推薦の愛国浪曲。――体制がわにくみいれられた時、その芸能は輝きを失って滅びる方向へまっしぐら。(『私は河原乞食・考』、三一書房、1969年、102頁)

 ここには、初期の小沢の伝統的な音楽芸能に対する価値観――体制側に取り込まれた音楽芸能は輝きを失う――が、たいへん分かりやすく示されている。そしてこの引用の後に続く部分で、そうではない「放浪芸」こそが輝いていることが述べられていく。

 しかし実は小沢にとって、雅楽その他の「高尚な」伝統芸能が体制側にあり、「低俗な」放浪芸が体制の外に追いやられている、といった当時の社会運動をなぞるような対比は、大した問題ではなかったように思われる。当時、著作『私は河原乞食・考』やLP『ドキュメント 日本の放浪芸』に取り組んでいた小沢が、40歳の「惑い」と呼んで真に問題としていたのは、日本人で新劇俳優である自らの文化的アイデンティティの問題であった。明治以降の近代化のなかで、歌舞伎などの「旧劇」に対して興った「新劇」は、西洋演劇に影響されたものである。小沢は、日本人である自分が西洋演劇を実践することに「惑い」を抱いたのである。なぜ小沢が自分も愛した西洋演劇(特にブレヒトやサルトル)を演じることに「惑い」を覚えたのかといえば、それは小沢が、いわゆる「高尚な」新劇や伝統芸能から排除された、当時はどちらかといえば「低俗な」と捉えられていた落語や寄席芸を、幼少の頃から愛していたためである。

劇団俳優小劇場の公演パンフレット『アルトナの監禁された人たち』(ジャン・ポール・サルトル作、1961年5月、於俳優座劇場)。左は表紙、右は「プロフィール」に紹介されている、ウェルナー役の小沢昭一。パンフレットは筆者所有。
劇団俳優小劇場の公演パンフレット『アルトナの監禁された人たち』(ジャン・ポール・サルトル作、1961年5月、於俳優座劇場)。左は表紙、右は「プロフィール」に紹介されている、ウェルナー役の小沢昭一。パンフレットは筆者所有。

 そして小沢は、新劇の敬愛する師である千田是也の牙城から飛び出て、友人の演出家・早野寿郎と劇団「俳優小劇場」を立ち上げると、少しずつ新劇と寄席との融合を試みて、「新劇寄席」なる一人芝居のシリーズを行なった。しかし彼にとっては、この「新劇寄席」では何かが解決できなかったようなのである。

 興味深いのは、小沢がそうした融合の試みを行ないながらも、常に落語や寄席芸の芸能者たちの「クロウト」の世界の人々に羨望の眼差しを向けて、「シロウト」の新劇俳優である自分はその境界線を乗り越えてあちら側へ入ることができない、と苦しんだことである。そして、「シロウト」と「クロウト」との境界線を越境しようと惑いながら、このように惑う自分が果たして役者という職業に適しているのかどうかを悩み続けた小沢が、1971年から1977年までの『日本の放浪芸』シリーズ(全4作)を経ることで見いだした回答は、次の彼のひとことに集約されている。

適業は見付けるものではなく、作りあげるものであると心得た。(『言わぬが花』、文藝春秋、1976年、13頁)

 『日本の放浪芸』シリーズの制作を通して、小沢は新劇と寄席芸、「シロウト」と「クロウト」といった既存の境界線で思考をもてあそぶのを止め、そうした境界線のある次元とは別の次元を「作りあげる」ことを覚悟したといえる。それは実際には、『日本の放浪芸』の第3作の後に彼が立ち上げた劇団「芸能座」において実践されていくことである。

 現在では古典ともアーカイヴともいえる『日本の放浪芸』シリーズであるが、その制作過程を当時の文脈に置いて捉えなおしてみると、この作品は小沢という新劇俳優が、表面からは見えない痛みを伴う多くの試練を潜り抜けて役者として成長していく過程を、生々しく私たちに追体験させてくれる「ドキュメンタリー」なのである。

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