「私小説」を書いたということ 葛西善蔵と自分の文体
記事:幻戯書房
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肩の力を抜いて、素直な言葉を置いていってくれればいい――そのように幻戯書房の編集の人に諭された? 否、うまく丸め込まれたとでもいうのでしょうか、大体、自分は初め、これを書くのを断ったのです。
もとより、小説も随筆も何等区別できないような頭脳しているのだし、それに自分のあんな遺書めいた、恥さらしの作品を自分で紹介するだなんて、それこそ気違いのやることじゃないですか。またここで葛西善蔵の言葉が想起されますが、「しまひには私を気違にするのか、俺は気違にはなりたくないと、こんなに云つてゐるものを、よつてたかつて気違にするのか」!(葛西善蔵「弱者」大正14=1925・8・1) それもですね、一銭にもならない仕事を、自分に押しつけた?――少しでも仕事を楽にしたかったのかしら?――そのように自分は考えないだろう、アァ、簡単な奴で良かった、とでも思ったのでしたら、大間違いです! 否! 何も、書くのであれば幾らか包んでくれろというのではないんです、そんな話じゃアない! こちとら、物書きしておまんま喰ってるわけじゃないんですからね。それに自分は、プロフィールに「作家」なぞと書きたがるような、そんなくだらん了見は持ち合わせちゃないんだ。しかし、素直に書くということは、こういうことなのです。自分を甘く見ましたね? この代償は受けて貰いますよ、Tさん!
芥川龍之介、芥川龍之介――かつての太宰治が、芥川の名前をノートに書き殴って居たのは、有名な話らしいですな。それが十八くらいの年頃だと言うので、彼もまたそういった、片想いする少年の、ウブな憧憬を芥川に対して抱いていたものだったのでありましょう。自分にも、そうした覚えがありますが、あれは中学一年生のときでしたね、学校のプリントの裏に、好きな女子の名前をびっしりと書き殴ったものでした。何んと気持の悪い話でしょう。
ところで、自分の文体なんというものは、勿論、葛西善蔵から来ているのですが、自分はこの太宰の芥川みたく、以前から葛西善蔵に心酔していたというのではありません。むしろ初めこそ、自分は旧漢字や旧仮名遣いにつまずいて、読むのにひどく骨を折ったものでした。大体から言って、子供時分から大の活字嫌いだったものですから、無論、本を読む習慣なぞなかったわけです。ともなれば、学校の勉強は嫌いでしょう、宿題予習復習しないでしょう、夏休みはカブトムシ三昧、テレビゲーム万歳、未だに分数がわかりません。
それは置いといて、つまり自分の人生の最後の仕事にと小説を選んだとき、その勉強を一からしようと決めたとき、先生が必要だったわけです。それが、私小説(ワタクシショウセツ)というものが自分にぴったり来ていたところから、津軽書房から出ていた彼の全集を、大体一年弱くらいでしょうか、大学ノートにせっせと書き写して、その間も彼の小説しか読まない、ということをやった。それが『自滅』を書き出す前のことでしたから、今から六七年前といったところですか。勿論、この『自滅』を書き出すに際して、一切、彼の本を開くことを禁じたものでもありますが。しかしやはり彼の血は私の血と反発し合うことはなかったらしい、今や幾分にも混じり合ったかと思われます。
これが吉と出るか凶と出るか――無論自分は、「……大吉! 大吉! 素敵々々!」(葛西善蔵「埋葬そのほか」大正10=1921・7・1)と怒鳴りたい気持であります。
書きたいことがあるから書き、書かなければならないとする信条があるから書く、そういった姿勢で在りたい。『自滅』は『自滅』として完結した。自分の次なる作品は、同じ轍を踏まないだろう。
『自滅』は、名は体を表すという通り、社会的に見て黙殺される類いのものでありましょう。一寸褒められたものでもありませんしね。しかし自分の信念の在り方としては、それで良かったのだと信ずるところです。何故なら自分は、あらゆる肩書きや権威を放棄する、名もなき流浪者であり続けようとの気持を強うする者でもあるからです。
この春、二度目となる四国遍路へ行きました。その道中で、一人の、悲しみを背負った流浪者に出会いました。それは冷たい雨降る日の、海岸に沿った国道の、暗い小さな東屋だった。自分はそこで、彼と約束したのです。
「きっと、貴方のその美しい魂を、自分が何かしらかたちにしてみせるから――」
自分はそう言ったとき、自分の使命の閃きと、作家として在るべき志の再燃するを感じました。
彼は泣いていました。自分は、そんな彼の名を知りません。また彼も同じく、自分の名を知らないのです。