満洲国とは日本人にとって何だったのか? 満洲国史から学ぶ「昭和史」の実像
記事:芸術新聞社
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1988年に公開された映画「ラストエンペラー」は、清朝最後の皇帝と呼ばれた愛新覚羅溥儀の自伝『わが半生』を原作に製作されました。物語は、西太后が溥儀を清朝皇帝へ指名されて即位する1908年からスタートし、1932年、満洲国建国に伴い、皇帝に就任し、満洲国の崩壊と共に退位、その後ソ連軍の捕虜となり、戦犯として中国で収容され亡くなる1967年までの出来事を溥儀自身の回想と共に描いています。
『満洲国グランドホテル』を読み進めると、「ラストエンペラー」に登場した人物が次々と現れますが、第一章冒頭の「映画「ラストエンペラー」でジョーン・ローンと坂本龍一が演じる実像とは懸け離れた皇帝溥儀と甘粕正彦だったり———。」(本文8頁より)の一文で「映画はフィクションだったのかも…」と衝撃を受けます。
これまで知り得ていた満洲国へのわずかな知識は崩れ、教科書や映画で観てきたこれまでの常識とは違う本当の満洲国の歴史がここにはあるのではないか?教科書では伝えられていなかった真実、満洲国に渡った多くの日本人の思いがこの一冊から読み取ることができるのではないだろうか…。
振り返ると、私たちが受けた高校の歴史の授業では、日本の昭和史の中で、最も学んでこなければならなかった満洲事変や日中戦争、そして太平洋戦争の詳細は、授業時間の問題だけでないだろうがスルーされてきました。
1932年に建国をした満洲国は13年半という短い期間ではありましたが、日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」と「王道楽土」を掲げた国家を目指していましたが、実態は関東軍の「内面指導」が幅を利かせ、地元民の土地を安い価格で買取り、挙句は無理矢理収奪して、農業をはじめるなど、反発を買う運営をしていた日本の植民地であり、傀儡国家でした。
本書の一文にも、「1931年9月18日、関東軍の謀略によって始まった満洲事変、その後の満洲国建国、日本政府の満洲国承認(日満議定書調印)、国際聯盟脱退、華北進出と、昭和史の命運を左右していくのが「満洲国」の出現でした。」とあり、ここまでは、多くの満洲国関連の本に書かれていることです。
著者の平山氏はあとがきで、本書は「満洲事変から満洲建国まで」「ソ連参戦から満洲国崩壊まで」、その最も大事な二つの時期はあえて避け、1937年〜38年の満洲国の歴史の真ん中あたりに焦点をあてていると書いています。映画のグランドホテル形式に倣って、満洲国の「新しき土」を踏んだ人々36名を次々と登場させることで、物語性を強めています。登場人物のそれぞれの「満洲」の細部を積み重ねることで、どんな満洲が見えてくるのか…。
平山氏が指針としたのは、第一章に登場する小林秀雄の「満洲の印象」でした。小林は1938年秋に、作家の林房雄と朝鮮、満洲、北支を旅しています。その頃の満洲を題材とした安彦良和氏の漫画『虹色のトロツキー』を30年ぶりに読み返したらそこにも小林が登場していたことに驚いたと書いています。今回、『虹色のトロツキー』からのご縁で、安彦氏には本書の素晴らしいカバー絵を描いていただくことができました。
満洲国といえば、これまでは満洲国を牛耳っていた「二キ三スケ」すなわち、関東軍参謀長・東条英機、満洲国総務長官・星野直樹、満鉄総裁・松岡洋右、満洲国総務庁次長・岸信介、満洲重工業総裁・鮎川義介などのいわゆる軍人や官僚のことを取り上げた読物や、満鉄、満映、阿片ビジネス、そしてここでは取り上げられなかった多くの犠牲者を出した満蒙開拓団や満蒙開拓青少年義勇軍、中国残留孤児、スターリンによる60万人ものシベリア抑留に関する書籍が多く残されてきましたが、本書の特徴の一つは、官僚、軍人はもとより、彼らの下であるいは後継者として働いた実務の官僚たちだけでなく、文人、ジャーナリスト、映画俳優、役人などにスポットをあてていることにあります。
満洲というと、「満映」を思い浮かべる人も多いと思いますが、李香蘭の絶大な人気に支えられた当時の満映において、当時大部屋俳優だった笠智衆がアクション映画の主役に抜擢されたことも本書の中で語られています。さらに、原節子のデビュー作は満洲で撮られた「新しき土」でした。
満洲に渡った人たちはさまざまで、骨を埋めた人もいれば、短期旅行者、なかには自らの命を絶つ場所としてその地を選んだ人など、それぞれの思いを胸に国が掲げた理想を信じ、敗戦時にはおよそ160万人近くの日本人が暮らしていました。その中には過去を消したい、人生をやり直したい人たちも含まれていたため、満洲国は「前歴ロンダリングも許される自由の天地」となっていたのです。
自由を求めて渡った満洲国では、この地を踏んだすべての人が置かれた立場は違えども、望むと望まざるにもかかわらず、敗戦後はそれぞれ過酷な人生を送ることになっていきます。
満洲国は私たちが知るべきもう一つの「昭和史」であり、令和を生きる私たちはこの国家規模での壮大なつまずき、失敗から学ぶべきことが多いのではないかということにも気づかされます。
565頁にわたる『満洲国グランドホテル』は、夏休みにじっくり読んでほしい一冊です。ページ数を聞くと、驚くとは思いますが、前述もした通り、36名の物語がオムニバス形式に綴られているため、十代の学生や若い世代のビジネスマンにも読みやすい内容になっています。昭和史ファンはもとより、満洲国史の傑作ともいえる一冊になっています。
登場人物一部を見るだけで、この本がこれまでの満洲国史とは明らかに異なることがわかるはずです。
【主なる登場人物】
「満洲の廊下トンビ」小坂正則/「新しき土」原節子/「殉職警官」笠智衆/「新京不倫」小暮実千代/「ヒゲの越境将軍」林銑十郎/ 「童貞将軍」植田謙吉/「満蒙放棄論者」石橋湛山/「朝日新聞の関東軍司令官」武内文彬/ 「満洲の印象」小林秀雄/「満洲紀行」島木健作/「満洲事変の謀略者」板垣征四郎/「満洲経営の事務総長」小磯国昭/ 「甘粕の義弟」星子敏雄/「植民地の大番頭」駒井徳三/「関東軍と喧嘩した官史」大達茂雄/「少年大陸浪人」内村剛介/
「小澤征爾の母」小澤さくら/「焦土外交」内田康哉/「阿片専売」難波経一/「獄中十八年」古海忠之/「「事件記者」島田一男と「ねじまき鳥」村上春樹の「国境線へ行く」